「それぞれの旅、それぞれの物語」ドライブ・マイ・カー cmaさんの映画レビュー(感想・評価)
それぞれの旅、それぞれの物語
映画を観ることは、小さな旅に出るようなものだ。濱口監督の作品は、果てしない旅。観終えたとき、帰り着いたような、まだ続いているような、不思議な感覚に襲われる。本作もきっと…と、おそろしくも心躍る想いで暗闇に身を沈めた。
いきなり冒頭から引き込まれる。不穏な物語を語る主人公の妻・音の顔は、逆光で翳っており、表情が全く読み取れない。顔を失ったようなルネ・マグリットの肖像画を思わせる。そこには生気がなく、空虚が広がっている。
そんな彼女を突然失った演出家の主人公・家福は、演劇祭に招かれ広島を訪れる。(作品では特に触れられないが、瀬戸内海は源平の戦いの舞台でもある。娘と妻と死の影を引きずった家福が、たどり着く場所に相応しく感じた。)そして彼の元に、様々な言語を操る多様な年代の俳優たちが集まってくる。「親密さ」や「ハッピーアワー」同様、演劇を作り上げていくワークショップやその舞台が、主人公を含めた登場人物たちの物語と絡み合い、響き合う。これは絶対に面白くなる、とぞくぞくした。
淡々とした台本の読み合わせ、家福が愛車の中で聴く妻が吹き込んだセリフの練習テープの繰り返しの中で、少しずつ奇妙な感覚に襲われていく。多言語の芝居は、自分のセリフはもちろん、相手のセリフや全体を把握していなければならない。相手が話し終えたことを合図に喋り始めるのでは、タイミングにズレが生じる。分からない言語でのやり取りだからこそ、言葉を超えた、息遣いや気配にさえ感覚を研ぎ澄ます姿勢が求められる。では、言葉が分かる同士はどうなのか。家福は、死んだ妻とあうんの呼吸で言葉を交わし続けるが、心は満たされない。
そんな中で異彩を放つのが、家福が主役に抜擢する若い俳優・高槻だ。妻の浮気相手(のひとり)だった彼は、怯むことなく家福に接近してくる。トラブルを重ねる彼を、家福は「自己コントロールが出来ないのは、社会人失格だ」と断じる。結局高槻は、いとも簡単に大きな事件を起こし、舞台を去っていくのだが、その抑制した姿は圧巻だった。彼が単なる血気盛んな若者ではない、という凄みを残す。家福と高槻は、表裏一体の関係にあり、だからこそ互いを意識し、引き付け合ったのではないだろうか。
感情をほとばしらせる若い俳優との別れののち、家福は寡黙なドライバー・みさきと長い北への旅に出る。死の影を引きずった2人が徐々に距離を縮めていくくだりは、言うまでもなく素晴らしい。2人の姿は、声を失ったダンサー・ユナが、家福演じる「ワーニャ伯父さん」に手話で語りかける終盤になだれ込み、深い感慨を残す。
言葉の限界、ことばの豊かさ。話したり書いたりするものが全てではなく、それはことばの力のごく一部、と改めて気付かされた。様々な語りに耳をすませ、目を凝らし、イメージを膨らませる。期待を超える、至福の3時間だった。