私は確信するのレビュー・感想・評価
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弁護士は仕事、仲間はボランティア
電話の録音聞いて裁判を手伝う話
法廷劇にハズレなしとはよく聞くけれど、手放しで面白いと言える映画ではなかった。
もっと劇的な展開を期待してしまったせいか、事実を元にした作品だからかちょっと地味な印象。
いや普通に面白かったけれども、なんだろうやっぱりラストの展開がいまいちでしたね。
容疑者の10年間の苦悩、弁護士の一度勝ってる裁判へのプレッシャー、怪しい愛人のクソ野郎ぶりなんかとってもよかったのですが、主人公の立ち位置が煮え切らなかったかな。
事件の資料まとめを手伝わされるうちに独自の真実を構築して暴走してしまう。自分勝手な正義を振りかざす姿に客観的にちょっと怖かった。
自分も同じ立場ならば主人公のように行動を起こすかもしれないと思う。
正しい行動だろうけど冷静な判断はできないだろうと思う。
この物語は「12人の怒れる男」に似ていて、真実はわからない。
裁判の結果と真実は同じと限らないし、人間は信じたいものしか信じない。
殺人か行方不明か分からないこの事件は結果的に残された家族が一番幸せな判決に終わる。
極論をいえば裁判とはこういう事なのかも知れない。
納得できる人、それを望む人が多い方が勝った方がいい。
命の重さは平等だし、負けた側は納得なんかできないけれど、世間的に見ればそれが収まりがいい。
当事者は真実を求めるけれど、部外者は結果を求める。
第三者が冷静に判断し判決を決めるのは正しいけれど誰もが納得する判決なんて絶対に下せない。
裁判のジレンマを深く意識させられました。
劇中の事故シーンで思わず「うぉ!」と声をあげてしまった。
唐突だったし、ストーリーの大事な場面だったので・・・
声をあげちゃうのはマナー違反かもですが、久しぶりに劇場で声が出てしまった作品。
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劇中セリフより
「私の世界を壊さないでほしい」
勝手な正義感で誹謗中傷をするのは考え物。
一番厄介なのは善意の他人なのかも知れない。
一度振り上げた拳はどこかに振り下ろされる。
下ろす場所がわからなくなったら力を抜いて拳を解くことも大事。
疑わしきは罰せず。裁判がもたらす、真の重みとは。
【賛否両論チェック】
賛:被告人の無実を信じ奔走するヒロイン達を通して、裁判のあるべき姿を見事に体現しているよう。
否:特に謎解き要素はなく、ストーリーは非常に淡々としているので、惹かれないと退屈してしまうこと必至。
疑惑多き失踪事件に端を発した、殺人事件の裁判。被告人の無実を信じ、無罪を勝ち取ろうと奔走するノアやデュポン弁護士の姿を通じ、1人の人間の一生を決めてしまう“裁判”というものの重みを、改めて痛感させられるようです。特にデュポンの最終弁論は、「疑わしきは被告人の利益に」を見事に表現している、非常に熱量のある演説で、一見の価値ありだなと感じました。
ただミステリーではないので、特段の謎解き要素はありません。そのため、物語は法廷のシーンを中心に非常に淡々と進むので、思わず眠くなってしまいそうでもあります。
裁判のあるべき姿を体現しているような、どちらかというと社会派の作品といえそうです。
皮肉なタイトル
昨年から目をつけてた映画ですがやっと観れました。が、なんか違う。
モレッティ弁護士の最終弁論がすべて、
本当に推測のオンパレード。
「たぶんああだ」「おそらくこうだ」で容疑者にされちゃたまったもんじゃない。誰も何も確信なんかしてないじゃない?
でもこれは事実を元にした映画だけど実際こういう推測で有罪にされた人って相当いるだろう。
声が浮かび上がらせる、違和感と不信感。
フランス映画特有のみんな身勝手はお約束。
国中から疑惑の目を向けられる、無罪判決を受けた元被告の男性。彼の無罪を確信した主人公が、誰にも頼まれてないのに、控訴された彼の無罪を勝ちとるために奔走する。
序盤の話の進み方はちょっと唐突で、その後の膨大な電話記録のテープの再生は観客を少し困惑させる。
でも、無罪の証拠を集めるために、仕事が終わった後に寝る間を惜しんでテープを聞き、リストを作る主人公の姿と、次々と流れる会話に次第に違和感を感じ始めるにおいて、ストーリーに引き込まれていく。
姿の見えない、テープから流れる会話から、事件関係者の人物像が浮かんでくる演出が、不可解な事件の薄気味悪さを引き立たせている。
後半は法廷での裁判の行方がメインだけど、証人は誰もがどこかおかしい。
姿が見えない前半で感じた違和感と薄気味悪さは、証人という形で、可視化されたことで、より不快感を増す。
フランスって、芸術の国だからか役者さんが良い、といつも思う。証人一人一人、どこにでもいそうな普通の人なのに、特にオーバーアクションでもないのに、絶対信用できないと思わせてくれる。
この映画、事件の真相は闇の中、って結末なんだけど、鍵を握る証人の人物設定のおかげで、それもやむを得ずと納得
そしてその役の役者さんの、底知れない不愉快さ、不快感は群を抜いてた。
謎解き、法定サスペンスに加え、主人公の息子との関係も描かれてて、最後まで楽しめました。
疑わしきを罰する
フランスで実際に起きた「ヴィキェ事件」を題材にした話で、失踪した妻を殺した容疑で起訴されているヴィキェが無実だと確信しているシングルマザーが事件の様々な音声を聞き、調査を進めていく話。
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このヴィキェ事件、失踪した奥さんの遺体が見つかったわけでもないので、ヴィキェさんが起訴されてるのも殺したんじゃないかという仮説だけで疑われてる。「疑わしきは罰せず」ではなく完全に「疑わしきを罰する」司法。
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でもこの物語の主人公ノラも息子の家庭教師がヴィキェの娘というだけで、何故かヴィキェが犯人でないと確信をしている。そして事件を調べていくにつれて仮説だけのトンデモ推理をし始める。
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ノラは最初からヴィキェが絶対犯人じゃないと思って膨大な音声を聞いているので、恐らく自分の考えに当てはまるところが重点的に耳に入ってるはずと、私は確信しているのだが(笑)、それは膨大なデータから自分の思想に合うもの興味のあるものが目に付くようになってるSNSと同じだなぁと。
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普段何となくあの芸能人嫌いとか見てないのにあの映画面白くなさそうとか思うことあるけど、それの延長線にあるような事件だなと思った。そこに正義が乗っかってるからまためんどくさい。
検察はいくつかの仮説を提示する。もっとも信頼する仮説を陪審員は選ぶ。つまり、世間が信じるのはひとつの仮説にすぎない。
予告とかから想像できるように、この裁判の結末は見えている。肝は、その結論に至るまでの弁護側の奮闘だ。裁判は、ヴィギエ被告が妻を殺したかどうかのみを争う。ほかに容疑者らしき人間が浮上しても、脱線はゆるされない。とことん追い詰められていく様は、自分が被告だったら気が狂いそうだ。
てかその前に、フランスでは死体がないのに殺人事件として立証されるの?
これだけ人格まで攻撃しておいて、ただの行方不明だったらどうするの?
そうそう「gone girl」ってのがあったじゃないか。ああいう場合だったら、生きてたねゴメンね、って謝って済ますの?
警察の杜撰な捜査、検察の偏見。まるで、体格差のハンデ戦を強いられた理不尽さが付きまとう気分だ。土壇場まで追い詰められながらも、判決の大きな決め手は、弁護人の最終弁論であったことは明らか。あれが陪審員の心証を揺るがした。だけど、そこにフランス司法に対するおおきな不安と恐怖がある。じゃあ、例え無実でも、検察側が、さも真実であると思えるほどの説得力のある仮説を提示した場合、有罪になるのではないか? 推定無罪の原則なんてないじゃないか。結果に喝采を送るよりも、その惧れをぬぐえない制度に震えがきた。そして、テロップで流れた「その後」に、この結末に消沈している多くの関係者を、影からほくそ笑む誰かの存在を、僕は確信する。その誰かは、誰なのか。妻か?間男か?もしかしたら無罪を勝ち取った本人か?まだまだ隠された真実がありそうだよ。根は深いんだろうなあ。
じゃあわたしも!わたしも!
どーぞどーぞ。
いや、良い意味での想定外な作品でした。冤罪事件に対する弁護士とお節介主婦のバディムービーかと思いきや、さにあらず。
ノラ(主人公)は現代を一人背負う感じで、序盤は間合いの上手いシングルマザーだったのが、物語が動くと共に嫌な間合いの視界ゼロ頭でっかちに。対照的にモレッティ弁護士は他の案件も抱えつつのプロ全開。ここら辺の化学反応が実に見事で、ものすごく苛々させられるのだけれども、ラスト間際にドカンと昇華されました。
主人公に対しての感想は最後まで変わりませんでしたけれどね(苦笑)。主人公も中々の加害者でしたから。きっとそれもメッセージ。お見事です。
で、奥さんどこにいるの?
法廷モノでフランス映画、「眠くなりそう…」と心配でしたが、全然寝せてもらえませんでした。
実話ベースで多分フランス人なら「あー、あの事件ね」という位有名な事件みたい。
家庭内別居状態の奥さんがいなくなって、犯人に仕立てあげられてマスコミにもずっと犯人扱いされてたらそりゃあ精神病みますよ。
警察がひどい見込み捜査で自白を強要させようとするとか、袴田さんの事件の頃から日本フランス問わず続いてるんだ。
あーくわばらくわばら。
冤罪で捕まりませんように、私。
それにしてもあの愛人!
たとえ10年前だったとしても少しも素敵なところないんじゃない?
奥さん趣味悪すぎです。
これがフィクションなら最後は「あの愛人が真犯人!」って事で幕なんでしょうけど、本当に奥さんどこに行ったんでしょうか?
日本のワイド番組に関わる方に見て欲しい
世の中では、たくさんの人が、さまざまな過ちや間違いを犯してしまう。
そこに、加害者、被害者、関係者がいる
この映画では
事実が確証できていないことを
仮説や推理をもとに、紡いで、具象化しようとする体制(価値観、体質とも言える)、
に、正面から立ち向かうこと!
そして、見た私に気づかせてくれた。
もし、あの法廷の、あの席に、自分がいたら・・・・
被告席
証人席
検事席
家族の席
・・・
陪審員
裁判に、決定的な証拠、証人は、いないという
こと
1人のひとの10年を
大衆は
軽率な一言、仮説を鵜呑みにすして判断する
社会の中で生きていく怖さを
この映画は、
学ばせてくれます。
救いの策は、ないようです。
私も憶測した
2000年にフランスで実際に起きた「ヴィギエ事件」を題材にした法廷モノサスペンス。
突如として姿を消したスザンヌ・ヴィギエという女性。手掛かりという手掛かりもなく、今現在も生死はわからないままの未解決事件らしい…。
失踪日は2000年2月27日…ってちょうど21年前の今日じゃないか!!
そんな偶然に驚きつつ・・・。
証拠もないまま殺人を疑われてしまう夫のダニエルを助けるべく、弁護士デュポンとシングルマザーのノラが奮闘する。
ちょっとテンポが良すぎる展開に加え、鳥肌の立つような伏線回収みたいなものもないからあまりノリ切れず(そもそもそういうのを狙った作品じゃないけど)、しかし確かなメッセージを持っている本作。
本当に、後半デュポンが言うセリフが全て。
気持ち的には全面的にノラに同意だけど、段々と目的がズレてきちゃっていたのは確か。
相手をダニエルと同じにするのがゴールじゃないですからね。
そもそもそれは弁護士の仕事でもないし…。
最終弁論のシーンは見ごたえがありましたね。
それと同時に、この言葉が10年も経ってやっと強く語られたものなのかと思うと、ある意味唖然としてしまう。こんなんで10年も続いたの?ダニエルの時間返してほしい。。
まさにちょうど21年経った本日現在もスザンヌの行方は分かっておらず。真実が気になる。
やっぱりデュランデが~とか結婚生活が破綻していたダニエルにも動機が~なんて自分なりの推理(憶測)を楽しみ始めた所で、デュポン・モレッティ氏に叱られたような気分になる、、、人の悲しい性ですね。
疑わしきは罰せずとはこういうこと。
有罪である。無罪である。真犯人がいる。
どこかで生きている。そう私は確信する。
全ては仮説。10年前、夫と3人の子供を残し姿を消したスザンヌ。殺害の罪に問われた夫ジャックの控訴審が始まる。無実を信じる家族と知人でシングルマザーのノラ。ノラの依頼を受けて弁護を引き受けた敏腕弁護士デュポン=モレッティ。一方有罪ありきの裁判は仮説が積み上げられマスコミも世間もその罪を疑わない。
250時間に及ぶ膨大な通話記録を調べるノラ。疑惑の人物が次々と浮かび上がり、真犯人はスザンヌの愛人だと突き止める。しかしこれも仮説でしかない。
遺体もない。目撃者もいない。自白もない。ジャックが犯人だという証拠も犯人ではないという証拠もない。「疑わしきは罰せず」正義とは何か。陪審員の心情に訴えかけるクライマックスの法廷シーンは見応えがあったし、胸が熱くなった。
ただ、フランスで有名な裁判が元になっていることもあって、知ってて当然でしょって前提の前半は正直理解できなくてかなり辛かった。フランスの方の名前も馴染みがないので、あれ?これさっき言ってた人の話なんかな?とか。あと、自らの生活を犠牲にしてまでのめり込むノラには共感できなかった。その正義感が時に物事の本筋を曲げてしまうかもしれない危うさ。とにかく何があっても息子を放ったらかしにしないで。
確信が新たな確信を生む。結局スザンヌはどこへ消えたのだろう。一番大切なことは何も分からないまま。
裁判は終わり、真相は闇に葬られる。
火の無いところにも煙は立つ
まったく身に覚えのない理不尽な非難に晒され、どれだけ潔白を訴えても真実の証明が出来ないという苦渋に満ちた経験を味わった事のある人は少なくないと思う。
洋の東西を問わず「火の無いところに煙は立たぬ」という成句のおかげで「噂が立つからには本人に原因があるのだ。」という論調になるケースは、これまた非常に多い。
しかし、ワールドワイドウェブ華やかなりし現在、SNSを眺めてみればまったく火(根拠)の無いところに、どす黒い煙が立ち上っていく様子をまざまざと俯瞰&観察出来る。
煙を起こす「火」は、本人に原因がある場合もあるが、それ以外にも近しい他人からの「妬み」や「マウントポジションが取れない事への不快感情」というケースが非常に多いのだ。この場合だと、本人はまったく悪く無いし本当に何もしていない。
火を煽る「風」は、当事者の事をロクに知らない赤の他人達の「心証」だ。
噂話は彼らの狭隘な経験に勝手に紐付けされ「こういうタイプはこんな奴に違いない」といった的外れの憶測を新たに生み出し続けていく・・・。
バッシングの規模は、家族、親族、近所付き合い、職場、SNSなど様々だが、その最たるものこそが司法レベルの「冤罪」であろう。
この映画の原題「Une intime conviction」は法律用語の「心証」の意だとか。
本作は実際にフランスで起きた「ヴィギエ事件」を人物名もすべてそのまま扱っている。唯一、架空人物であるヒロイン「ノラ」も、ランボー監督自身の投影だ。殺人罪に問われた第二審時、ヴィギエ氏とその家族に話を聞き、モレッティ弁護士に弁護を依頼したのもランボー監督だ。スザンヌ失踪後、ヴィギエ氏と交際関係にあり家族を支えた女性を外殻、ランボー監督を内核としてノラ像は生まれた。
デュランデがヴィギエ氏を犯人に仕立て上げる画策が通話記録で明らかなのにも関わらず、警察と検察が有罪獲得に躍起になった事実に、ランボー監督とモレッティ弁護士は動いた!
司法システムが内包する悪しき問題と、巻き込まれた人々の悲劇に一石を投じる為に!
日本でも袴田巌さんは30歳の時に殺人容疑をかけられ32歳から74歳まで収監、裁判は決着していないので84歳の現在も死刑囚のままだ。警察・検察が殺人犯に仕立て上げた可能性も否定出来ない。本当に冤罪ならば、なんと恐ろしく悲しい人生であろうか!
映画の中で、ノラは250時間にも及ぶ通話記録を分析しては情報をモレッティ弁護士に渡す。弁護士は証言者の言葉が如何に曖昧なものであったかを1人1人に証拠を突きつけ、事件の心証をひっくり返していく。ノラがレストランの料理を次々と仕上げるように。
しかし、デュランデの悪意ある画策を知った時、ノラもまた自分の抱く一方的な確信に捉われる。正義の為に動いているつもりでも、人は容易に「心証」に捉われ、左右されてしまうのだ。盲目的に正義を振りかざし、ロクに知りもしない他人を勝手に断罪する。(コロナ警察しかり、だ)「世論」とは、そんな側面を含んでいる事を、ノラは体現してくれる。
クライマックスでモレッティ弁護士が推定無罪の原則について訴える圧巻のシーンは、実は観客にも問いかけているのではなかろうか?
デュランデが真犯人だと思いますか?彼もまた、推定無罪ですよ?と。
SNSが世論を形成する速度は凄まじい。ネット社会が訪れる以前の比ではない。そんな情報化社会を生きる私達は、これまで以上に「推定無罪の原則」を厳しく意識していく事が大切だ。
冤罪という悲劇に、誰かを突き落とす事のないように。
そして自分が落とされる事のないように。
かつて似た事件が思い出され。
日本でいえばさしずめ三浦和義氏の一連の疑惑事件だろう。マスコミリンチにさらされ、劇場型の<容疑者>の存在感に、ポピュリズムに溢れた無責任な、マスコミ判決が乱発される、あの事件だ。日本人一億総ざんげしなければならない個人の尊厳を踏みにじった人権侵害。いかに彼がグレーだとはいえ、それはあくまで推定無罪として静かに法の判断を待つことが必要だった。日本人はその反省があるのだろうか。昨今の、有名人の発言の切り取りでの<マスコミの暴力>と、その暴力を頭から信じてしまい、正義の味方として被疑者を非難する情報受容者のインテリジェンスに欠けた発言。目に余る。
実話だけに最初からネタバレなのに、台詞だけでものすごく見せる。
もうちょっと含蓄ありそうな邦題はつけらんなかったもんかな、「私は確信する」。
簡単にいえば「フランス版ロス疑惑(三浦和義事件)」みたいな、妻が行方不明、夫はヒッチコックのファン(マニア?)らしい。夫婦仲はすでに破綻、妻には堂々と愛人がいる。
これはやったな、って世間はみんな思う。証拠は何もないけど、報道は過熱する。メディアスクラムってやつ。旦那さん追い詰められる。そこで主人公の女性が立ち上がって、彼の無実を証明しゆとして、「ヤリ手の有名弁護士」に依頼する。
この女性主人公は架空の人物だけど。他はみんな実在の人物 、ってもの凄いけど。
この映画はフランス人はみんな知ってる実在の事件をもとにしてるってことで、最初からネタバレ映画なんで、結末どうなるんだ、ってワクワクして観てると肩透かしを食うかも、
これがフィクションのドラマなら、ラストで「真犯人」が判明するんだろうけど。この映画は「事実に基づいている」ので、そうはいかない。だいたいこの「疑惑の夫」は鬱病だといって映画の中でもほとんど喋らない。だから、依然として、この夫がやっぱり殺人犯なのかも、という可能性も、否定はしていないんだ。
ただ、「そうじゃないんだ。証拠がなければ無罪なんだ(つまり推定無罪)」ってことを、この弁護士は皆に(主人公にも、裁判官や陪審員にも、社会にも)分からせなきゃならんわけで、そこは一筋縄ではいかんわけです。
実はこの「妻失踪事件」は、いまだに解決してない。遺体は発見されてないし、「夫じゃなければ、じゃあ誰だ」ていうのも明らかになってない。なのに映画にしちゃう、けっこう凄いとこするな。
ずーっと主人公の証拠集めと、裁判所のシーンばかりが続く。おきまりの「再現映像みたいなシーン」は一切出てこない。ストイックだ! でもそこがリアルともいえる。
弁護士と主人公はしばしば対立する。それは「真犯人を挙げてギャフンと言わせてやる」という主人公と、「依頼人(夫)を無罪にすることだけが目的だ」という弁護士の、アマとプロの違い、ともいえる。だから、協力しながら、時には激しく対立する。そのへんが面白い。
仮説で裁いちゃうの?
裁判は仮説のオンパレード、どなたかのコメントに心証で判決されたりするらしい(えっ、マヂで?)SNSの世界と変わらないような…怖い。
論理的に積み上げるような仕事で、ノラのようなガチャガチャしたタイプとは一緒に仕事したく無いなぁと思いました。最後にノラの人物像はフィクションですとありましたが、なぜそんな説明が必要なのかと。いい年した大人が息子をほったらかしにして裁判にのめり込む、そんな女性(母親)が実際にいたら文句がつきそうだから?と疑ってしまいました。
何かに基づいて
人は確信に至るとおもうのだが、その何かが予断と偏見に満ちたものであったり、何かを意図した噂だったり、確信は事実ではない事も多い。マスコミ報道も確信の元かもしれない。
犯罪?失踪? わからない事になんとか辻褄がつく説明が、犯罪だとしたら… この説明が確信になっていく。
駆け足ながらスピード感ある法廷劇!
「ヒッチコック狂の完全犯罪」とチラシに書いてありどんなサイコパスな映画かと思ったら普通に面白い法廷劇。
一審有罪、二審無罪で迎えた最高裁。
日本でもありますよね!?
特に「袴田事件」は、警察による精神に異常をきたすほど凄惨な拷問を筆頭に、職場同僚のアリバイ証言を不利な証言に捏造、衣料品メーカーから取り寄せたサンプル布地2点を証拠品に悪用する、事件から1年近く経過してから検察が採用した血のついたミソ漬けシャツが有罪の決め手だったはずなのに40年近く経過しDNA鑑定技術が向上してもシャツを鑑定せず世論の批判を浴び嫌々出した結果「他人の可能性が高い」となっても検察の往生際の悪さゆえ、この国では奇跡的な再審が叶っても最高裁までもつれる。
この映画も同様で、特に最高裁では一審で有罪判決を出した裁判長が出て来て、完全に警察、検察、裁判所がグルになり一人の人間の人格を奪おうと躍起になっている。
とはいえ日本ほど酷くはないけどね…
それ程日本は最悪で、エリート意識の高いこういう連中は一度犯人として公表したり判決出してしまった以上、自分の間違いを認めるより強引にでも犯人に仕立て上げテメエのしょうもないプライドを守ることに専念するしか脳が無いんだろうね。
作品観てたら、容疑者の為に奔走する主人公の女性が、まるで袴田巌さんの為に半世紀以上奔走したお姉さんに見えて仕方がなかった…
闇の中
実際の裁判サスペンスと言う面白そうな前宣伝の割には、主人公ノラが裁判に関わって行く動機がイマイチ説得力がなかったし、何が、サスペンスなのか⁈
主人公ノラは、無罪を信じてと言うより、自分の確信にとらわれて膨大な録音を聴き、仕事も失い事故にまで遭ってしまうのだ。赤の他人に何故そこまで⁈
例えば、ノラが、容疑者の恋人だったり、大学ですごく世話になった先生の為と言う名目があったら腑におちるのだが、それも無く、推定無罪になった彼と喜びを共に分かち合っていないシーンは、なんじゃコレ⁈と思ってしまった。
これは、己が心証を確信にすべくして行く様を映画化していたに過ぎないのでは無いか⁈自分にもあるよなぁ、答えが有って、それに現象を当てはめていく事って😞
しかも、映画は、彼女側に立って作られているから、観客の私達は、スザンヌの恋人だったオリビエが非常に怪しい容疑者としてせまってくるのだ。それは、陪審員にも同じ事。陪審員たちは、再犯されたジャックが絶対?犯人に違いないと思って座っていたが、次第に犯人では無いんじゃないか⁈と変容して行くのだ。
それは、圧巻の陪審員を前にした最終弁論に尽きる。確たる証拠が無い場合、推定無罪となると言うことなのだ。
本当は、鬱を装ったジャックが殺していたとしても‥と、へそ曲がりな私は想像してしまった。
推定無罪という刑事裁判の原則に立ち返った見事な最終弁論
パリは哲学と芸術、自由と人権、美食と恋愛の街というイメージである。しかし人間のどす黒い側面が存在するのは、パリも例外ではない。
どうして行方不明が殺人事件として扱われるのか。日本では行方不明は失踪事件として殺人事件とは区別されるが、フランスではそうではないらしい。映画では最後までその理由がわからなかった。サヴィ警視を筆頭の警察が成績を上げたかったのかもしれない。日本の警察も似たようなところがある。しかし本当の理由は不明だ。
物語はヴィギエ事件と呼ばれる失踪事件が起きてから10年後の裁判の様子を中心に描かれる。3人の子どもを残して失踪した女性の夫を殺人事件の被告としてまず地元で裁判が開かれ、一審で無罪となったが検察が控訴、本作品は第二審をめぐっての話である。
主人公ノラは被告の娘が家庭教師を務める子供の母親である。それだけの関係なのにどうして仕事も子供のことも疎かにして、ヴィギエ事件に没頭するのか、映画を観ているだけでは理由がよくわからないが、どうやらノラはランボー監督がモデルらしい。ランボー監督はノラと同じように事件にのめり込んだようだ。ノラが事件の記録をまとめて、当時無罪請負人として有名なエリック・デュポンモレッティ弁護士に依頼するが、これもランボー監督が実際にしたことらしい。それで少し納得した。ランボー監督自身にも、何故行方不明が殺人事件として裁判で争われるのかについて疑念を持っていたのだ。
ノラの資料と熱意に押されて弁護を引き受けるデュポンモレッティ弁護士だが、いささか強引過ぎるノラの態度と、暴走気味の正義感に辟易しつつも、これまでの経験と知識を生かして裁判に臨む。そこではノラに託した250時間分の通話記録の分析が役に立つ。証人たちは通話記録との矛盾を突かれて証言は二転三転し、ヴィギエ被告は有罪になりそうになったり無罪になりそうになったりする。
ラストのデュポンモレッティ弁護士による最終弁論は、推定無罪という刑事裁判の原則に立ち返った、見事な演説であった。名優オリヴィエ・グルメの面目躍如である。とはいってもフランスもアメリカ等と同じ陪審員制度だ。科学的な見地で判断する人もいれば、直感や印象で判断する陪審員もいる。ヴィギエ被告に対する最終論告に、ノラは固唾を呑む。
デュポンモレッティ弁護士は、その後マクロン大統領の任命でフランスの法務大臣となった。ちなみにフランスの閣僚は男女同数が原則である。
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