「裁判は事件を解決する場ではないということ」私は確信する バフィーさんの映画レビュー(感想・評価)
裁判は事件を解決する場ではないということ
実際にフランスで起きた「ヴィギエ事件 」をモデルとして、一部キャラクターや演出としてフィクション要素を散りばめた作品ではあるのだが、そもそもの事件というが、未だに解決されておらず、真犯人どころか遺体も発見されていないため、極端なことを言えば生きているかもしれないし、拉致などの他の事件に巻き込まれた可能性などもある。そんな失踪や行方不明事件というのがフランスでは、年間に数千単位で発生しており、これは日本や他の国でも同じである。
どこかで誰かが急にいなくなるという事件は、今もどこかで起き続けている状況で、不十分な証拠の中で犯人として疑われてしまった夫のジャック。当時、妻とは家庭内別居状態で、妻には愛人がいて、たびたび口論になったりもしていた。ジャックに良い印象をもっていなかった、妻側の親族や、愛人だった男、ベビーシッターなどがジャックを犯人と決めつけ、むしろそうあって欲しいと思っていたこともあり、ジャックが容疑者として捕まってしまい、裁判にかけられたという一連の流れから10年が経過していて、無罪判決は一旦出たのだが、また裁判が続き、どうなるかわからないという舞台設定がまたひとつの今作の味となっている。
死んでいるかもわからない状況ではあるのだが、ジャックは法学部教授であり、以前講義の中で「完全犯罪は可能だ」と言ったことが、マスコミなどに漏れ、情報が拡散することで一気に犯人扱いとなってしまう。
マスコミの決めつけて偏った報道、警察のあくまで仕事としての事態処理によって冤罪というのは起きてしまうわけだが、のちに裁判で無罪になったとしても、そういった報道をされたという事実は残ってしまうし、事件が解決されていない以上は、「犯人かもしれない」というものが一生付きまとう。
裁判で事務的に無罪となることは、この事件にとってはジャックとその家族たちにとって、冤罪状態が続くことと、あまり変化がない...それでは、本人や家族が可哀そうと立ち上がったのが今作のシングルマザーのノラである。
新しい弁護士に協力するかたちで、犯人を見つけ出してやろうという「正義感」があったのかもしれないが、この時点でノラはジャック側に肩入れをしてしまっていて、中立的な判断ができない。
通話記録を入手したことで、ノラは没頭していく。次第に子供との関係も適当になり、仕事にも遅刻したりと、日常生活にも影響をもたらしていく。「正義」と信じて、自分自身が与えられた使命だとも思ったのかもしれない。
しかし、疑惑が疑惑を生み、憶測や言葉の矛盾点を指摘していくことで、真犯人は「愛人だったのではないか」ということを着地点にしようと無意識のうちにしてしまっているのだ。この構造自体が新たな冤罪を生み出すことにも繋がりかねない。
何かを信じ、その考えが間違っているとは思わない、偏った考えから生み出されてしまう「正義」なのだ。実際に犯人なのかもしれないが...「かもしれない」を立証するのは、かなり難しい。
弁護士デュポンはノラに対して「裁判を理解していない」と言うシーンがあるが、悲しくも正にその通りであって、裁判というものは、「正義」や「事実」を振りかざしながら事務的にしか動かいという、かなり厄介なものでもあるのだ。
ジャックが有罪か無罪の裁判であって、極端なことを言えば、真犯人が誰かという問題は別問題でもあったりする。
決定的な証拠、つまり犯人が自白でもしない限り…それでもどうだろうかといった状況。犯行現場が鮮明に映った映像でも出てこれば別かもしれないが。すでに争っているものの発端自体が、裁判から分離してしまっているのだ
冤罪が一気に晴れるなんていう、スカッとした法廷劇では決してない作品ではあるが、「疑わしきは罰せず」という言葉が良い意味にも悪い意味にも左右するのが裁判というものだったりして、今作はそんな裁判というもののあり方、裁判っていったい何なんだというのを改めて考えさせられる作品であった。
ちなみにヒッチコックがどうとかっていうことは、あまり関係ない。