「観終わってどこかホッとした穏やかな気持ちになる」ミッドナイト・スカイ 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
観終わってどこかホッとした穏やかな気持ちになる
ジョージ・クルーニーは現代という時代に相当な危機感を抱いているのではないか。2018年5月に鑑賞したジョージ・クルーニー監督、マット・デイモン主演の映画「サバービコン 仮面を被った街」のレビューの冒頭にそう書いた。本作品では危機感を抱いていた事態が現実になってしまった世界を描き出した。
世界に警鐘を鳴らしていたオーガスティン博士は、病気で自分の寿命が残り少ないことを知っている。終盤で宇宙船から見た地球の様子からすると、地上の殆どの場所は台風と砂嵐が居座っているように見えた。住める場所は北極と地下だけだ。多くの人は宇宙船に乗って旅立った。博士は、任務を終えて地球に戻ってくる宇宙船に引き返すように伝えるために北極の基地からたった独りで無線を飛ばし続ける。「NO」を伝えるためだけにか細い生を繋いでいるのだ。なんとも悲壮な覚悟である。アンテナが壊れてしまうと、幼いアイリスを連れて離れた別の施設に移動する。はぐれたアイリスを見つけたのはある種の邂逅であった。
一方の宇宙船には5人のクルーが乗っている。こちらもアンテナが損傷し、そのために悲劇が起こる。修理したアンテナでオーガスティン博士に交信できるのだろうか。ここにもある種の邂逅がある。ふたつの邂逅は偶然だったのか、それとも必然か。映画は観客次第でどちらにも取れるような選択肢を提示する。
深読みだろうとは思うが、オーガスティンはアウレリウス・アウグスティヌスから取った名前かもしれない。Augustinus(アウグスティヌス)の英語読みはAugustine(オーガスティン)である。アウグスティヌスは国家を否定した聖人として有名であり、吉本隆明の「共同幻想論」にも通ずるような国家観の持ち主であった。人間の支配欲が国家を形成していると言ったのである。支配欲が源だから、自国だけでなく他の国家も支配したがるのが当然で、戦争は愚劣な支配欲同士の堕落した現象だと看破した。紀元4世紀から5世紀にかけての人である。
本作品がアウグスティヌスの世界観に基づいているのかは不明だが、地球を人間が住めない場所にしてしまったのは、愚劣な人間同士の堕落した現象であることは間違いない。松田聖子が歌った「瑠璃色の地球」(松本隆作詞)には、「~争って傷つけあったり 人は弱いものね~ひとつしかない私たちの星を守りたい~」という歌詞がある。宇宙船から見た地球はもはや、瑠璃色ではなかった。その映像に、ジョージ・クルーニー監督の深い悲しみが見て取れた。
アメリカやロシアや北朝鮮、それに日本の政治指導者を見渡せば、まさに支配欲に冒された愚劣な人間同士である。しかし選んだのは国民だ。国家は堕落した存在だと否定したアウグスティヌスの気持ちがよく分かる。本作品では、地球を護ることが人類を守ることだというクルーニー監督のメッセージが伝わってくる。そして人類はおそらく地球を守れないだろうという諦めのこもった確信もある。
宇宙船はUターンする。もはや地球に未来はないのだ。しかし人類には未来があるかもしれない。生と死。本作品ではその両方が描かれる。宇宙の歴史と人類の歴史。時間と空間の壮大な広がりに思いを馳せれば、国家も地球も人類も、ほんの小さなひとときの変化に過ぎない。そういった達観が心を平安にしてくれる。観終わってどこかホッとした穏やかな気持ちになるのは、そのせいかもしれない。素晴らしい作品である。