「苦しみの根源を辿れど、どこまでも辿り着くことは無く」無聲 The Silent Forest おたけさんの映画レビュー(感想・評価)
苦しみの根源を辿れど、どこまでも辿り着くことは無く
多くの問いを含んだ映像だった。
ジャニー喜多川氏による性被害の声がやっと取り上げられつつある今。
あまりに苦しい描写が幾たびも幾たびも重なるが、自分と遠い出来事とは思えなかった。
聴者の世界から弾き出された、ろうの小さな世界で。
閉鎖的空間、密接すぎる人間関係で繰り返される性被害。
窮屈な学校という世界で、いじめや人が替わりながら続く嫌がらせを間近にみてきた私も、この物語の中の一人でもあった。
嫌なことをされながらも続く人間関係、正義感で止めることのできない鬱屈さ。
女子生徒がクラスメイトたちに性暴力を受けるシーンは強くショッキングだった。
人気のない夜道でもなく、暗い倉庫でもない、明るい朝の通学バスの中、多くの人がいる中で。
加えて、繰り返し性暴力を受けている生徒が、先生に対して性暴力を否定し遊んでいただけと加害生徒らをかばうシーンでは、家庭内暴力の被害にあっている子どもが虐待をする親をかばうかのような、被害ー加害関係として単純化できない複雑な状況に、胸が引き裂かれる。
そして、次々に何年間も繰り返して性暴力を受けていた生徒が明らかになっていく。
ここでは女子生徒へ加害した男子生徒も、先輩から性被害を受けていた被害者であることも明らかとなる。
この映像の根幹の問いの一つに、女性が性暴力を受けることと、男性が性暴力を受けること、この2つに重さの違いがあるだろうか?という投げかけがあった。
女子生徒は性暴力が防げずに、自らの妊娠機能を奪うために闇医者に手術を受けに行くシーンがある。
女性にとっての性暴力のおそろしさの中でも、妊娠する可能性は大きな要素となっている。
しかし、妊娠しなければ性暴力の罪は軽いものとなるのか?
そして私が最も絶望的だったのは、性暴力を知った教師や校長らが問題を放置したことだった。
性暴力に遭ったことを告げても、被害者が嫌と伝えたかと問われることになったり、学校の評判のために対応されずに放置されたり。
苦しんでいる人が助けを求めた時、放置されることが、どれほど絶望するか。
放置することの底知れぬおそろしさ。
性被害の連鎖は、辿れど辿れど、どこまでも続くばかり。
正義感によって、女子生徒を助けるため男子生徒に加害した主人公の見ている世界と、主人公に加害された男子生徒の見ている世界にある、深い溝に震える。
ろう者と聴者、救いの手が差し伸べられた人とそうでない人、当事者と管理者。
「女性だから」「教師だから」「コミュニケーションが円滑だから」と何気なく分断、排除されること。
ラストシーンでは、正義感を持ってある人を救ったはずが、再び繰り返されていく連鎖。
そして、映像を見た人に受け渡されたこの事態を、私はどう受け取るのか。