劇場公開日 2020年12月18日

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「もう過去を振り返ることはない」この世界に残されて 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)

4.0もう過去を振り返ることはない

2020年12月24日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

 ときどき頓珍漢な邦題をつける配給会社だが、本作品の「この世界に残されて」という邦題は秀逸だと思う。まさに戦争のあとに残された者たちの悲哀を描いた作品である。第二次大戦後の1948年からスターリンが死んだ1953年までのハンガリーの首都ブダペストが舞台となっている。
 ホロコーストによって家族を失った16歳の少女クララと42歳の医師アルドが出逢い、寂しさのあまり同じ心の傷を持つアルドのところを訪れてきたクララに対し、父親代わりのような日々を送る。家族がいない境涯をなかなか受け入れられず、世の中に対して斜に構えているクララだが、アルド医師は決してそのことを否定したり説教したりしない。クララがみずから自立の道を歩み始めるのを待っているのだ。
 ナチスドイツが去って平穏な日々が訪れたと思ったら今度はソ連だ。一元論の価値観を押し付けて人格を蹂躙するのはナチスと同じである。自分を持たない人は共産党に入党し、スターリニズムという全体主義を錦の御旗にして、共産党員でない人々を睨めつける。自分が虎の威を借る狐であることに気づかない。何度か登場する居丈高な女教師がその典型だ。アルドもクララもそんな連中を相手にしない。
 しかしスターリンの弾圧はハンガリーにまで及んでくる。常に覚悟を決めているアルドは、いつ何時であっても即座に逃げ出す準備を怠らない。緊張感の続く日常に厭世的になってもおかしくない筈だが、クララもアルドも正気を保ち続ける。このアルド医師の落ち着いた精神性が物語を安定させている。クララは素晴らしい人に出逢ったのだ。
 そして3年が過ぎて、クララは21歳になった。もう落ち着いた大人である。ラストシーンの森の中を走るバスの中では、窓に溢れる光がクララの表情を美しく照らし出す。その光の温かさは、今を生きていこうとするクララの心を優しくあたためているようだ。もう過去を振り返ることはない。

耶馬英彦