「映画というより「見る知恵の輪」」もう終わりにしよう。 char1さんの映画レビュー(感想・評価)
映画というより「見る知恵の輪」
「マルコヴィッチの穴」と「エターナルサンシャイン」というエポックメイキングな2作品の脚本を担当したチャーリー・カウフマン監督作。先述の2作品は今でも数年に一度はみるほど個人的にも大好きな傑作。しかし「脳内ニューヨーク」や「アノマリサ」は未見のため、彼が監督した作品を見るのはこれが初めてになる(いつかみなきゃと思いながら、Netflixで手軽に見れる本作が最初になってしまった)。
予告編を見たときからなんとなく自分が好きそうな作品だなと思い、実際に見てみたら確かに楽しめた。が、それは「想像の知恵の輪」みたいな本作のパズル部分を解く部分が半分で、映画としては残念ながら「マルコヴィッチの穴」「エターナルサンシャイン」よりも水準は低いと感じた。
作品全体の評価とは別に、主演女優の演技は半端じゃなかった。
本作のストーリーについては、難解だけど、注意深く見て、観賞後にゆっくり考えてみれば理解できる(解ける)内容だと思う。
以下に考察をば。
基本的に、あらゆる映画に登場する小物全てに意味があると考えれば良い(チェーホフの銃)。ただ、本作は最初からラスト数分までほぼ全部「小物」である。(その小物の数も膨大なので鑑賞にかなりの集中力を要する。)
登場する小物の中で多いのが、物語の創造主の「ほころび」。登場する家はまさに彼の心象世界であって、心理学でいうところの「投影」。洗濯機から出てくる制服や、犬、新品のブランコ、等等、「その場所にあるはずのないもの」の多くが「ほころび」になる。
母や父は、きっと想像主自身の体験に基づいている幻で、楽しかった記憶よりも、イライラさせられた記憶、介護で大変だった記憶の方が印象深かったことが窺える。
(最後の方まで主人公だと思わされていた)女性は、創造主の「理想の女性」と「過去に捨てられた恋人」の集合体。ほぼなんでも知ってることに関しては、それが想像主の理想だから。「終わりにしようかと思う」と彼女が繰り返し思うのは、おそらく彼の過去の体験に基づいたもの。その過去の体験を引きずり、本当は「終わりにさせたくない」から、儚い妄想を続けているのが本作の本当の主人公である孤独な掃除夫なのだ。
心象世界の中でも特に印象深いのは地下室。「地下」へ降りることからわかるように、これは深層心理を表しているものになる。「なれなかった自分」がキラキラ儚く輝いているのが印象的で、ここに物語の本当の主人公の「大切な失われたもの」が全て眠っている。
以上までが、最後までみて、観賞後に考えて分かった事。知恵の輪みたいな感覚で、登場した小物を頭の中でカチャカチャやると、ふとした瞬間に解けたような感覚になって、なかなか面白かった。
ただ、鑑賞中に楽しめたかと言われれば、そうでもない。「謎解き」部分に比重が置かれ過ぎているような印象を受けてしまうほど、実際のドラマは退屈で、見てる人を試している雰囲気があり、優しくない。スパルタ式なのである。
そして、この映画の登場人物には「目的」がない。箱庭のような感覚で、「想像の中」という閉じたスペースで物語が進行していくので、「主人公の目的に沿う」ような従来のドラマとは全く構造が違う。このことも、本作が退屈に感じる一因だろう。
先述の「ほころび」に関しても、本作はそれがあまりにも多すぎる。小出しにするのではなく、ほぼ毎カット何かしらのほころびが映り、仮の主人公である女性も特にその理由を探求しようとしないので、そのうち飽きてきて特に物語に興味が出なくなる。つまり、映画で起こる事象の全てが嘘っぱちに見えきて、どうでも良くなる。まあ、実際に全部嘘っぱちなんだけど、映画としてどうなんだろう、といった手法だった。
細かいところでは編集も気になった。次から次へとカメラが切り替わるのが忙しなく、ただでさえ疲れる物語なのに、この不要なカメラ切り替えにはさらに疲れさせられた。
「謎解き」は楽しかったので、ある種ミステリー物のように楽しめたが、根本的にドラマとして楽しませる要素がほぼ皆無なのが辛い。
例えば、「ドニーダーコ」なんかは謎解きも難解だけど、同時にドラマも両立している。本作はその片方が欠落してしまって、映画としてのバランスがあまり良くないという風に感じた。
(以上までの考察を念頭に、もう一度見れば、もしかすると評価も変わるかもしれない)