ルーブル美術館の夜 ダ・ヴィンチ没後500年展のレビュー・感想・評価
全11件を表示
【レオナルド・ダ・ヴィンチに見る揺らぎと、余白と】
日本のテレビなどで紹介されるレオナルド・ダ・ヴィンチの作品は、どれも天才的だとか、科学者としての側面もあるからか、構図や遠近法の取り方、フスマートなど技術的な側面が強調されることが多いことに加えて、ミステリー作品の「ダ・ヴィンチ・コード」のせいで、謎の人生だとか、フリーメーソンを謎の秘密結社として、それとの関わりとか空想的な話題も多い。
実際の、レオナルド・ダ・ヴィンチは、遅筆だったことや、絵の具にもこだわりがあったため、結構貧乏だったことは、あまり話題にはなっていない。
だが、海外のドキュメンタリーには、数少ないレオナルド・ダ・ヴィンチの作品かもしれない数作品の文献や分析プロセスを紹介したり、もう一枚あるはずと言われていた「ラ・ジョコンド(モナ・リザ)」に科学的な焦点を当てたものもあって、本当に興味深いものも多い。
この作品は、ルーブル美術館で行われた「レオナルド・ダ・ヴィンチ展」のエッセンスを紹介したもので、センセーショナルな演出を排除しながらも、レオナルド・ダ・ヴィンチの残した揺らぎや、未完の部分…、もしかしたら、余白と呼んでもいいのかもしれないアプローチも紹介する興味深い内容になっている。
キリスト教絵画で主要な題材となっている「受胎告知」のレオナルド・ダ・ヴィンチのものは、日本では、遠近法の中心はどこかとか、天使の羽を宗教的な表現を排除して、鳥の羽を模しているとか、ドレープが精緻だとか、実際に展示する位置を考えて、人物の腕の長さを調整しているとか、そういう話題が中心になりがちだが、数少ない完成品として見て、実は、このレオナルド・ダ・ヴィンチの受胎告知には物足りなさが残る。
この映画では、生気が不足していると言うが、僕は、レオナルド・ダ・ヴィンチの他の作品と比べて揺らぎが少ないと感じる。
フラ・アンジェリーコの受胎告知には、ヴァージンで、そしてフィアンセのいるマリアが、天使に「あなた神の子供を宿しましたよ」と告げられ、明らかに戸惑っている様、つまり、揺らぎがあるのだ。
だが、映画でも学芸員が述べているように、これをきっかけに、レオナルド・ダ・ヴィンチの作品は大きく進化を遂げる。
人物描写や、表情についてだ。
最後の晩餐の人物の動き。
レオナルド・ダ・ヴィンチ作かは未だ判断に至っていないが、フィレンツェのヴェッキオ宮の壁画となる予定だった「アンギアーリの戦い」の元絵は、物凄い動きが表現されている。
そして、神の物語を表した宗教画の人物や、肖像画には、背景にあるストーリーをもクローズアップさせる揺らぎか特徴になっていると、僕は強く感じる。
カラヴァッヂョであれば、天才的な感性で表現するのだろうが、レオナルド・ダ・ヴィンチは、科学的なアプローチを徹底していく。
超極細のペンで色を無数にキャンバスに載せていくフスマートはこの過程で確立されたものだ。
そして、虚ろとも、曖昧とも、心の中に別の感情があるのではとも思わせる表情はどうやって作られるのか。
小学生の時、読んだ詩に、モナ・リザの目というのがあって、自宅のモナリザのポスターの目は、自分がどこにいても、こちらを見ていて怖いというものがあったのを思い出す。
前は、モナ・リザの鼻を中心に縦横の線を引き、対角線のディメンションを隠すと、残った部分が、一つは笑っていて、残りはくもった表情だとか、斜め左上、斜め右上、正面から見たものを合わせたも合成の絵を描いて揺らぎを表現したのだという仮説もあったように覚えている。
しかし、これは、近年の研究では、両目、右目だけ、左目だけで対象物を見た時に、それぞれ異なるように見えることに着目して、器具なども開発したうえで、確立した表現方法ではないかとも言われていて、これは、レオナルド・ダ・ヴィンチの作品ではないかと言われている作品の鑑定のプロセスでも確証を得るために部分的に採用されている。
でも、考えてみたら、モナ・リザの目が、自分を常に見ているように感じることは、この方法で描かれたとすると合点が行くように感じるのは僕だけではないように思う。
そして、多くの作品に残る未完の部分。
これにより、鑑賞する僕達に解釈の余地…というより、感性の刺激される余地が残るとしたら、レオナルド・ダ・ヴィンチは、心理学にも精通していたということになるのではないのか。
日本では、長谷川等伯が余白を大切にしたことで知られるが、ルネサンス時代に、敢えて未完成と称して余白を残し、後世の解釈に委ね、今、僕達が、息を飲むようにレオナルド・ダ・ヴィンチを鑑賞している。
これこそ、安っぽい小説とはまったく異なるミステリーで、500年という長い時を超えたレオナルド・ダ・ヴィンチの仕掛けであり、ロマンじゃないのだろうか。
僕は、最後の晩餐を、3回見ている。
修復前(正確には修復開始後だが、調査中の時)、
修復中、
修復後の3回だ。
そして、映画の中で紹介される模写も見ている。
この模写は、紹介された作者とは異なると議論にもなっていて、本当にレオナルド・ダ・ヴィンチの周りには不思議なことが多くある。
前の方の席で見るのがおすすめ
一番前の列で見ました。なぜなら、視界が全部スクリーン内だけになり、まるで自分がルーブル美術館の夜中にいて、他のお客様に気を取られずに、レオナルドの作品を観てるような感覚を体感できるからです。
とても真面目な内容なので、興味のある人は感心できることが多いと思います。興味ない方はスルーがいいです。
ここまでダビンチの作品を近くでは見れないので、よしとする。
ドキュメンタリーなのだが、現場のキューレターの方の解説が主なので、かなり学術的。
半分、夢見がちになりながら、後半、段々と面白くなる。
そもそも、ダビンチが生きていた頃の状況を考えて見て、彼が何を見せたかったのかを想像すると、
動画というものがない訳だし、描かれている人に感情があるという絵もなかったんだと思う。
ダビンチの素描の解説の中で、動いているものを描くために輪郭線は何重にも描く、または、はっきりさせないと説明されていた。
つまり、ダビンチは、動いている人の一瞬の感情や動きをとらえたものを描きたかったんじゃないか。
その当時は、聖書の中で出てくる話を事実として人々が考えていた訳だし、
それをいかにリアルにドラマティックに伝えるか、ということを考えたときに
この感情の時の人の目の動きや表情、空間までを解剖学的にわたってまで考えて、見せたかったんじゃないかと思う。
最後のモナリザに関する解説の時に、ほぼ実際の人物と同じ大きさで描かれており、同じ目線で見るとそこに彼女が存在しているように見せたかったという解説を聞いて、
ダビンチは、哲学者であり、今でいう、映画監督に近い感覚だったのではないかと思う。
解説は、フランス人らしく、若干まわりくどく眠くなるところもあるが、このコロナの状況で絶対に実物を見に行けないことと
行けたとしても、ここまで近くで鑑賞できないことを考えると、こういう楽しみ方もいいのかも。とも思う。
コロナ禍の下、ルーブル美術館へ行って参りました
普段から真面目に探究している専門家の方が、学術的にテーマを決めた企画展。
ということなので、『ダ・ヴィンチ コード』的な新解釈とか、異端の学説のようなものがあるのでは⁈
となんの根拠もなく期待していくことはやめた方がいい。
と、自分の失敗体験を記録しておきます。
でも、キャンバスというか、原画の板の経年劣化のため、今後は海外への持ち出しはできないらしいので(←昔、モナリザが上野に来たことを知らない方にとっては、そもそも持ち出し⁉️って何❓だと思いますが)、『モナリザ』を生で見たい、という人には擬似体験としてオススメできます。
コロナ禍で海外旅行にいつ行けるのかも分からないし、行けたとしても入場制限でなかなか入れないし、入れたとしてもじっくりと鑑賞できるとは思えないし、じっくりと鑑賞できたとしても、この映画のように近づいたり、アップできるわけでもないし…。
素人の眼力(←美術に関する鑑識眼無し、加えて年々衰えるばかりの視力)を考えたら、とてもありがたい企画でした。
万能の天才ではなく、探求者としてのダ・ヴィンチ
どうせ「万能の天才」といった、キャッチーなアホらしい言葉が並ぶのだろうと、全く期待しないで観に行った。
ところが、とても真面目な地に足の着いた内容で、(自分は観ていないが)展覧会の解説としては申し分ない映画であった。
さすがルーブル美術館である。
冒頭では、「絵画は、世界を再現する神聖な科学」というダ・ヴィンチの“信念”を、展覧会のテーマとした旨が語られる。
映画は、展覧会のキュレーター2人の解説を中心に、ヴァザーリの「画人伝」なども少し引用しつつ、絵画を時系列で辿っていく。
その生涯については、ごく簡単に触れられるのみで、あくまで展示品ベースの内容である。
展示品は、「空前絶後」という宣伝にふさわしく、寡作のダ・ヴィンチとはいえ、有名な作品の半分以上はカバーしている。ただし「最後の晩餐」は持って来れないので(笑)、16世紀の模写である。
炭素による強い吸収を利用した、赤外線反射による“リフレクトグラフィー”写真も、何度も出てくる(下描きが分かる)。
特に前半が素晴らしく、ダ・ヴィンチ芸術の真髄に迫っている。
“繊細な動き”を内在した表現。
形態模倣を超越した、生命感の追求。
彫刻から学んだ空間(3D)感覚。
輪郭線の拒絶。スフマート技法。
明暗の強調(キアロスクーロ)。
精密な表現を求めて、いち早く油絵を取り入れたこと。
捉えたい瞬間を得るまで何度も描くので、結果として“なぐり描き”したように見えるスケッチ。
ただし、個々の作品解説についてはありきたりで、自分でさえ、あまり参考になるところはなかった。
「“未完成の表現力”を求めて、わざと仕上げなかった」みたいな、「???」な解説も出てくる。
また、細かいタッチまで分かるような、拡大映像が出るかと期待したが、ほぼ無かったと言っていい。
しかし、「万能の天才」とか「哲学者にして科学者」といった空疎な修辞を並べることなく、上品でオープンな人柄の、絵画の「探求者」たるダ・ヴィンチの姿を描こうとした本作品は、自分にとっては素晴らしい新年のプレゼントであった。
絵画に詳しくないですが
ダ・ヴィンチも絵画と詳しくないですが、予告編を見ていて「あの有名なルーヴルの中が観れるなら」というだけで行ってきました。
詳しい解説を聴きながら、心の中で「へ〜」とか「ほ〜」とか言いながら観てました。それなりに楽しめました。
あっ、鑑賞料金が2000円でした。
NHKを観るかのように
エキシビジョン開催期間中にルーヴルに行っているのですが、チケットが入手困難だったことと、かねてよりダヴィンチファンだったことから、観に行きました。
閉館後のルーヴルでじっくりと絵画に向き合ったり、キュレーターを独り占めして母国語で解説を受けたりすることは困難なので、とても贅沢な時間でした。
解釈は分かれると思いますが、本キュレーターは、ダヴィンチを「万能の天才」としてではなく、ひとりの人間味あふれる画家として、並々ならぬ好奇心と探究心を持つ努力家の側面から、その信念と、それが表現された作品の素晴らしさをあぶり出そうとされていると思いました。
映画のいち作品というよりは、NHKでも観るかのように観ると良いと思います。
古き時代の学びの場
クラシック音楽とか古典絵画を映像で見たとき、しばし物足りなさを覚える。それは、リアルな筆圧とか音圧を知ってしまっているためであり、どんなに高画質高音質であっても、よほど真新しい何かがなければ、自分の中に確立されている感覚を上回ることはない。
この作品もその範疇だった。ましてやダビンチの展示物を扱っているわけだし、正直、印刷物で事足りてしまう感覚だった。
そんなことは見る前から想像できていたし・・・これまで幾度となく眠気に襲われてきたわけだし─。
それでも、今度こそ、劇的な何か─劇的な科学技術の進歩とか新たな発見とかこれまでにないアプローチとか─あるかもしれないと淡い期待で臨んだものの・・・・・・といった感じでした。
何かしらの刺激はあるとと思うので、学びとしては良いのかも─。
あの作品が好きなら…
ネタバレにもならないとは思うけど一応ご注意を。
「ダ・ヴィンチと言えば」「ルーブルと言えば」という世界的に有名なあの絵画を、過去の作品とその習作、そしてリフレクトグラフィーという技術を通して分析・考察、それを映画的な演出で描いた「学術映画」という印象。
劇場のそこかしこから寝息が聞こえたが、映画そのものが「美術館の閉館から夜明けまで」という構成なので、どちらかというと「退屈で眠い」というより「心地よい夢を見てる」感じかな。
あの絵に思い入れのある方なら堪能できるんだろうけど、私のような貧乏性の素人&ミーハー絵画好きは「せっかくのルーブル美術館なんだから、もうちょっと作品の『数』を見たいよ」と思ってしまった。
だって、世界的有名作品が館内のシーンあちこちでチラッと見切れてるんだから。
「あ!今のドラクロワのアレじゃね?」
「(スー)」
あ、あと予告編の最初が『シン・エヴァ』で、宇多田ヒカルの「♪はじめてのルーブルは…」から始まったのは偶然なんだろうな
全11件を表示