「共存するしかない」アイダよ、何処へ? ノリック007さんの映画レビュー(感想・評価)
共存するしかない
原題は「QUO VADIS, AIDA?」です。
ペトロがイエスに投げかけた問い「Quo vadis, Domine(主よどこにいかれすのですか)」に由来しています。
邦題は「アイダよ、何処へ」です。
この映画を鑑賞しただけでは、理解できないことが多いです。
なぜ、こんなことになったのかを自ら調べ、理解する必要がある映画です。
殺しあってきたからこそ、共存するしかないということです。
ボスニア紛争について知らない人は、事前にパンフレットを購入し、予習したほうが良いです。
1995年に、日本では話題がありました。
1月17日、阪神・淡路大震災が、起きました。
3月20日、地下鉄サリン事件が、起きました。
7月5日、松岡修造が、ウィンブルドン選手権大会で、ベスト8に進出しました。
7月11日、野茂英雄が、米国メジャー1年目で、オールスターに選出され、先発しました。
11月23日、Microsoft Windows 95が発売されました。
ボシュニャク人は、イスラム教徒の信者です。
セルビア人は、セルビア正教会というキリスト教の信者です。
スレブレニツァには、旧ユーゴの警察特殊部隊出身のナセル・オリッチに率いられた強力なボシュニャク人武装勢力がありました。
1992年4月、ボシュニャク人武装勢力が、セルビア人の村に突入し、セルビア人を惨殺し、追放し、略奪し、建物に放火して支配地域を広げました。
1993年4月16日、国際連合安全保障理事会が、ボシュニャク人の武装解除と共に、スレブレニツァを安全地帯に指定しました。
ボシュニャク人武装勢力は武装解除せず、スレブレニツァからセルビア人へ攻撃を行いました。
1993年末、米国政府は、ボスニアを二分割し、半分をセルビア人に、残り半分をボシュニャク・クロアチア人に与えました。
米国政府は、ボシュニャク・クロアチア人が、与えた中にいるセルビア人を虐殺するのを黙認しました。
米国政府によって、セルビア人は劣勢になりました。
1994年、NATOは、セルビアに対して空爆と経済制裁を始めました。
ボシュニャク・クロアチア人は、共同作戦でセルビア人の拠点を陥落しました。
1995年1月~4月、追い込まれたセルビア人は、停戦を受け入れました。
セルビア人は軍事的劣勢に立たされたからこそ、自らの地域内にあるボシュニャク人の飛び地であるスレブレニツァを攻略しなければならないということになりました。
1995年5月25日と5月26日、NATOは、セルビア人の弾薬庫を空爆しました。
セルビア人は、375人の人質を捕らえ、さまざまな標的の人間の盾として使用し、NATOに空爆を止めさせました。
1995年7月2日、セルビア人はボシュニャク人を封じ込めのためにスレブレニツァの南部にある国連の5つの監視所を攻撃し、スレブレニツァを孤立させました。
1995年7月11日から22日にかけて、ムラディッチ将軍は、セルビア人の正規軍に命令し、スレブレニツァのボシュニャク人を虐殺しました。
ムラディッチ将軍は、旧ユーゴスラビアの士官学校をトップの成績で卒業した軍人で、合理的・戦略的な思考をする人物で、先を見据えて、行動します。
NATOは、ムラディッチ将軍に最後通牒を出して、空爆すると通告します。
ムラディッチ将軍は、NATOに空爆したら、オランダ人国連軍を攻撃すると言い返します。
NATOは、空爆したくても、空爆できないということです。
ムラディッチ将軍は、スレブレニツァにいるボシュニャク人武装勢力がスレブレニツァを脱出し、ボシュニャク人と合流して反撃に転じることをなんとしても阻止しなければなりませんでした。
ムラディッチ将軍は、大量のボシュニャク人を捕虜にして、戦争犯罪人だけを処罰し、ボスニア人の捕虜を交渉のカードにしてきました。
ムラディッチ将軍は、大量のボシュニャク人を捕虜にしたため、収容する場所はなく、食料や水の手配も難しく、劣悪な環境に放置すれば、国際社会から非難の的になり、交渉カードにもならず、軍事的・経済的な圧力を強められるだろうと判断しました。
ムラディッチ将軍は、大量のボシュニャク人の捕虜を戦闘で死亡したことにして、ボシュニャク人の虐殺することにしました。
このスレブレニツァで起きた「スレブレニツァの虐殺」を映画にしています。
1995年8月30日、NATOは、セルビア人に対する大規模な空爆を行いました。