「第三者としての想い」おかえり ただいま shinさんの映画レビュー(感想・評価)
第三者としての想い
その昔、綾瀬で起きた凄惨な殺人事件をモチーフにした映画を公開しようとしたとき、ネット上で非難、バッシングを浴び、公開中止に追い込まれたことがあった。
こうした犯罪を映画化することの目的は、風化させないことや事件から教訓を得て再発させないことがあると思う。ただし、非常にデリケートな問題であるから世間を刺激し、騒がれるのも仕方のない側面もあり、製作にあたっては当然遺族への配慮も必要だ。そして、遺族が協力しなかったとしても当然だと思う。
事件の印象度に優劣を付けるなんて不謹慎だが、この事件も綾瀬の事件に負けず劣らず凄惨なはずなのに、本作が上映されるにあたり、ネット上で特に非難の声が挙がってはいなかったように思う。
その理由は分からないけど、おそらく情報量も増え興味も移ろいやすく、また、凄惨で猟奇的な犯罪が増えたように感じ、感覚が麻痺して、多くの人にとって昨日の一つの出来事程度の事件でしかないからかもしれない。わたし自身も、この事件に対して、ああこんな事件もあったな、くらいの想いでしかなかった。
事件の凄惨さは言わずもがなで、(もしかしたらこの映画のテーマの一部かもしれないけど)死刑存廃問題は本作を評価するにあたり必要ないと思うので、ここでは触れないでおきたい。
前半再現ドラマで、これでもか、というくらい幸せな母子家庭を描き、被害者女性の優しさ誠実さが描かれて、この先どうなるのか分かっているだけに、幸せな光景を見ているはずなのに、胸が苦しくなる思いだった。
加害者にも当然ながら生きてきた年数分の歴史があり、犯罪に至ってしまう一因に家庭環境が大きく影響していることがきちんと描かれている。
だからと言って育った環境を犯罪に至ってしまった言い訳にして良いわけがなく、しかし育った環境を考慮して死刑存廃問題を考えると、存続か廃止かが大きく揺れてしまうのである。
第三者としてこのような悲惨な事件を考えるとき、被害者側に立って考えるのは容易い。なぜならこの家族のように人に恨まれることのない日常を送っていてもあっという間に被害者、被害者遺族となってしまう、自分自身もそんな立場になる可能性は、自身が加害者あるいは加害者家族になる可能性よりも格段に高い。
遺族である母は、なぜ裁判は被害者目線でないのか、と訴える。当然だろう。だけれども死刑が事件を解決するとは思えないし、極刑を増やしたところでこの手の事件が減るとは思えない。
母が娘の無念を晴らすための努力、闘いを目の当たりにして、このようなことを書くのは心苦しいが、もし神田司の人生の一部に少しでも変化があれば、特に両親からの愛情がもう少しあったとしたら、このような犯罪には至っていなかったのでは、と想像すると、なんともやり切れない想いが残る。それが最後の蛇足とも思えたけれど母親が公園に神田司を迎えにくるという想像のシーンが織り込められていた、と思いたい。
惨殺な事件を第三者として語るとき、被害者側に立って、犯罪者は死刑にしちまえ、と唱えるのはあまりにも無責任だ。
興味本位で事件の裏側を覗こうとするのではなく、事件を風化させず本気で再発させることのない世の中にするために、第三者として考えていかなければならない。
そんな想いにさせてくれるのに十分過ぎるほど力と熱のこもった見応えのあるドキュメンタリーだった。