地上の星たち
2007年製作/162分/インド
原題または英題:Taare Zameen Par: Every Child Is Special
2007年製作/162分/インド
原題または英題:Taare Zameen Par: Every Child Is Special
アーミル・カーン、映画製作における信念を明かす「不平等、不公平な構造――それに気付いた以上は語り、表現したい」【「花嫁はどこへ?」インタビュー】
2024年10月4日アーミル・カーンが日本のファンにメッセージ! プロデュース作「花嫁はどこへ?」は「私も大好きな映画」
2024年9月4日インド映画のほっこりする映画に出ているイメージが強いアーミルカーン。 今回も例に漏れずめっちゃ似合う役だった。 登場のシーンはおそらくみんな引いちゃう。 インド映画に耐性がない人には癖が強過ぎると思う。。 ディスレクシアの男の子が可哀想で心が痛くなったが、自信がついたようでよかった。 お父さんも決して悪い人ではないはず。 お母さんとお兄ちゃんはいい人だった。 子供、父母全員に見て欲しい映画。
インド上流階級の発達障害児の話だが、
生徒が全員男子生徒と言うのはどういった理由があるのか?女の子はこの年にはどんな階級でも、一定の運命があるのだろうか?
『感受性があって、絵を描くセンスがあって良し』それで良いのだが、教育者はデッサンの必要性を解かなければならないと思う。
しかし、教育を受けて『社会に役立つ人間になる』と言う概念が間違っていて、『自分の世界を作る(アイデンティティを作るとか)』であれば、それだけで良いと思う。歴史的な絵画を残す必要も無いし、常識を覆す物理的法則を発見する必要も無いし、人類を癒やす交響曲を作る能力を持つ必要も無い。
せめてそれを理解出来る知恵を持てれば良いと僕は思っている。つまり、
叡智を育む為に最低限の知識は必要だと思う。
削除されるかもしれないが、エジソンもゴッホもアインシュタインもピカソもアガサ・クリスティもビートルズも存在しなかったとしても、僕の人生は変わらなかったと思う。いやいや、そう思いたい。
最後、シャガールの様だ。
発達障害という言葉を考える。 人間という生物的には別にフツーに育っている何が問題なのか。 産業を支える労働者として評価した時に基準に満たさない人間を発達障害と評しているのではないか。 そもそもそんな評価基準は万能だろうか? その評価基準のせいで、人々の生活を支えるだけでなく一変させたり、人々に感動を与えて相互理解に貢献できる人の可能性を潰していないか? というようなことを考えさせられる映画でした。
発達障害で周囲からできない子扱いされていた少年が、ある美術教師と出会い、初めて肯定的に見られ、自信を取り戻す話。ベタだけど良い話だった。シーンの撮り方、魅せ方が上手い。一人で町をぶらつくシーン、水滴に絵の具を混ぜていくシーンなど、芸術的な美しいシーンが多かった。インド映画の挿入歌って良い曲が多い。思わず口ずさみたくなる。他のインド映画も見てみたくなった。