アイヌモシリのレビュー・感想・評価
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あの少年の存在や目力に心奪われる
それはとても不思議な感覚だった。我々はアイヌ文化についてほとんど何も知らない。それを見越した上で、映画は境界を超えて、我々を見知らぬこの文化や精神性の領域へいざなおうとする。いや、もっと正確に言えば、やがてアイヌ文化を受け継いでいかねばならない新世代へと焦点を当て、一人の少年がそれを担うのか、それとも距離を置いて遠くへ立ち去るのか、我々にその決断の行方をしかと見届けさせるのだ。ドキュメンタリーではなくあえて劇映画として紡ぐことで、思春期を迎えた少年の心の揺れが手に取るようにわかる。なおかつ、文化をどう継承するかに苦慮する大人たちの苦労すら深く伝わってくる。何が正解なのかは全くわからないし、頭や理屈で飲み込むことも困難だ。だからこそ物語があり、映画がある。我々は映画という箱舟に乗り込むことで、この文化の一側面に触れることができる。何よりもあの少年の存在や目力に心奪われっぱなしの84分だった。
アイヌの今
アイヌコタンでのロケ、主要登場人物を演じるのもアイヌの人々で、現代でアイヌの人々の生活の実感が強く込められた作品だ。主役の少年はとても良い目をしていてとても絵になる顔だ。主人公の母親は土産物屋を営んでいる。そこに来た日本人観光客が「日本語お上手ですね」と悪意なく言う。やれやれといった表情で母は「勉強したので」と返す。きっとそういうことを言われるのは日常茶飯事なのだろう。
本作が優れているのは、価値観の衝突がしっかりと描かれているところだ。イオマンテというアイヌの伝統は、現代の価値観にそぐわない。だが、少数民族の伝統文化がグローバル社会の中で残酷だとしても、安易につぶしていいのか。それは強者の理屈に過ぎないのではないか。今の価値観が全て正しいなどということはありえない。本当の多様性のある社会は、このように必ず価値観の相容れない衝突が起こる。
僕を含め、多くの日本人はアイヌについて知らなさすぎる。アイヌのリアルを見せれくれる本作はそれだけでも大変貴重な作品だ。日本とは、日本人とは何か。そして本当の多様性の残酷さと難しさは何かを教えてくれる素晴らしい映画だ。
カントのこれからの生き方が見えるね。
自分の文化を疎んじたくなり、自信が持てない主人公、カント(下倉幹人)。こんなステージを人は経験する。アイヌの生活ので生きていることは『普通じゃない』と言い切るカント。この普通じゃないと言う意味は、自分の環境も家の親の仕事もアイヌを売り物にして、観光客を集めていると言うのが普通じゃなという意味かもしれない。それに、自分のアイデンティティーがアイヌとして生まれたことにより、また、文化の一部を継承することにより、自分の自由を奪われているような気がしているのかもしれない。それに、周りを気にして生きているからかもしれない。
父の死後、カントはそれをより感じたのに違いない。阿寒のアイヌ村では1975年以来、阿寒でまりも祭りにイヨマンテの行事をしたことがないという。中心になっていて、カントの面倒も見てくれているデポはこれをおこないたがっている。でも、村人の意見はそれぞれ違う。熊を殺すことで、村人以外の人々がどう思うかも気になる人もいる。また、今、行う意味はを問う人もいる。
カントはデポに与えられて自分が可愛がっていた子熊がイヨマンテで使われて、殺されることに抵抗を示すが、デポの言葉、『亡くなったお父さんもやりたがってたんだよ』を聞いて、父親のビデオコレクションの中から、イヨマンテの儀式を探して見る。
カントとデポのつながりが、カントをアイヌの世界に導いてくれているような気がする。父親の一周忌の席で、デポは「光の森」について話す。そこの洞穴を抜けると死んだ人のいる村があると。それは伝説だと思っているカントは父親に会いたいから自分がそこに入っていけるかきく。デポは洞穴の向こうからはこちらに来られると答える。のちに「光の森」を二人は訪れるが、カントにとって、魚つりや微笑の仕方などキャンプではアイヌ文化とこだわらない文化を堪能しているように思える。子熊だって、儀式に使うと知る前は、カントにとってみれば、アイヌの文化じゃないわけだし。
あと、楽器を演奏している父親の友達の一人と山に出かけた時、カントの行動に変化が見られる。父親の友達は入山する時、山神に祈らないが、ケントはデポに教わったようにして祈る。この父親の友達も『山も森もアイヌのものだったが、今は違う、悲しい』と。そして、今の気持ちのままでいいと教えてくれる。これって、大きいよね、背伸びしなくて、悲しければ、泣けばいいいし、やりたければ、やればいい。自分を偽る必要がないから。この言葉が好きだ。
カントは長的存在のデポや楽器を演奏している父親の友達、それに、イオマンテと言う神聖な儀式の復活を通して、ふらついていた自分自身が確立してきたようだ。デポの言う言葉で、イオマンテの意味を実体験したようだ。それは、「可愛がっている子熊を神の国に送ることで、小熊が、人間の国は美しいいところだと神に伝える。それによって、贈り物として神がフクロウやクマなど、動物になって地上に降りてくる。」。カントはイオマンテの後、木のてっぺんにフクロウが停まって、地上を眺めている事実を体験した。自然界の全てに神が宿ることをカントは体験した。
(書き殴ったので、編集し直す必要がなるが、していない)
ドキュメンタリーのようでした
現代のアイヌを象徴する作品だと思う。
淡々と
目が強い
出演しているアイヌの人たちは、おそらく演技素人だと思うが、目が強い。やはり存在感がある。演技が達者な日本人の俳優を使えば、もっとドラマになっただろうが、あえてそうしなかった監督は潔い。ただし、水野透子とリリー・フランキーがナイスなアシストをしている。
博物館でイヨマンテの儀式の記録映像を見たことがあるが、アイヌ民族にとって意味のあることだとしても、熊を殺すのを見るのはやはり心がざわつく。しかし、コタンの会合でも賛否両論だったし、民族の伝統は残すべきだし…外野が心配するのもおこがましいが、悩ましい問題だ。
「日本語が上手」と言う観光客の言葉に、慣れっこの様子で応対する母。こういうの自分もやりかねないので、ほんと気をつけよう。無知は時に残酷である。イヨマンテよりもね。
北海道の大地でアイヌたちはのびのび暮らしていたが、時代は移り変わり、たくさんの和人と共存しなければならない。アイヌモシリは遠くなってしまった。それでも、若者たちがアイヌの精神を繋いでいくことだろう。
日テレの放送を録画で。
決して忘れてはいけないこと
時代は明治に入って、政府は本格的に北海道の経営に乗り出します。
1906年(明治39年)に作られた鉄道唱歌・北海道編は「千里の林・萬里の野 四面は海に圍まれて わが帝國の無盡庫と 世に名ざさるゝ北海道」と歌い上げます。政府が北海道の開拓に本腰を入れた理由を如実に物語るものでしょう。
そんな明治政府の目から見れば、すでに交換経済を営む自分たちと比べて、神々が宿るものとして自然を大切にし、採集・狩猟生活を大切にしていたアイヌの人たちは、ずいぶんと時代錯誤な遅れた生活を営んでいるように見えたことでしょう。
アイヌの人たちを「北海道旧土人」(かつてアイヌ民族を指した法律用語)と呼んで憚らなかったことからも、そのことは、充分に窺い得て、あまりのあるところです。
この地を初めて本格的に探検した松浦武四郎は、この地を「北加伊道」(ほっかいどう)と名付けたはずでした。「加伊」は、アイヌ民族のことで、彼は、この地を「アイヌの人々が暮らす土地」というほどの意味を込めて名づけたものでしょう。
しかし、明治政府は、アイヌ民族がこの地の先住民族であることを明らかにするこの地名を嫌い、日本の領土の北辺に位置する土地という無色透明な意味合いに置き換えて「北海道」の文字を当てはめたと言われています。
評論子を含めて和人(シャモ)は、決してそのことを忘れてはならないのだと思います。
ドキュメンタリーのような映画
シンプルだけど伝えたいことが伝わってくる密度の高い映画だと思う。
アイヌコタンで暮らす人々の生活とアイヌ文化とその文化への思い等が若いアイヌ民族の主人公を中心として描かれている。
カメラワークと主人公のピュアな佇まいが、この映画をより心に迫るものにしているような気がする。
観終わった後もアイヌ音楽が耳に残り、阿寒の四季の美しさが瞼に残るようだ。
現代アイヌのドキュメンタリーのような完成度の高さ
アイヌの伝統文化であるイオマンテの復活とそれに抵抗する14歳のカントの話。めちゃくちゃいいテーマであるが、評価や感想が十人十色になる点も良い。アイヌの伝統文化が継承されていて、それが観光ビジネスになっている事やアイヌの文化やその土地の自然は美しくもあるが、時に嘘臭くも感じてしまう。そしてその文化の中にはイオマンテのように今の価値観では受け入れ難いものもある。でもそれをなるべく忠実に守ろうとする人たちにとって大切な事という側面があり、立場によって見方はかわるし、ましてや外の人間がそれを批判するような権利はあるのか。和歌山県太地町で行われているイルカ漁に対して抗議する映画THE coveも世界的にはイルカを殺すなんてという評価だが、その映画の信憑性そのものも問われた。しかしイルカを守ろうとする人は言ってしまえばイルカ教原理主義者のようなものであり、自分の正義や生活のために行なっている行為にすぎない。宗教というのは行き過ぎると周りが見えなくなるものでもあり、クレイジーな行動になってしまうことがある。そういう要素も含まれていて14歳のカントが1番何教にも属さないフラットな目線で現代アイヌの生活を見つめている。美しい伝統文化はもちろん残ってほしいが首狩り族が現代には生き残れないように、今の価値観で考えて認めたく無いものは、無理に継承する必要は無いように個人的にはおもう。
観光客が写真を一緒に撮ってもらってるシーンにドキッとした。 アイヌ...
【”神の国”と”人間の国”の狭間で、アイヌの血を引く少年は、戸惑いつつも生命の尊さを学び、”強き眼差し”で自らの未来を見据えた・・。】
■今作の印象的な点
・冒頭、カント少年(下倉幹人)が先生(三浦透子)から、進路を聞かれた時に”ここ(アイヌコタン)以外ならどこでも・・”と答えるシーン。
その後も、少年が自らの出自であるアイヌ文化への違和感を感じているシーンが続く。
- この対応、反応は、アイヌの方に限った事ではないだろうが・・。自らの家が、アイヌの文化工芸品を観光客向けに売る店である事も、一因であろう。
お客さん達が、悪気があるわけではないが、彼の母親に”日本語、上手ですねえ”と話しかけたり、写真を一緒に撮ったり・・。違和感を感じるよなあ・・。-
・そんなカントが、亡き父の友人で、アイヌ文化を誇りに思っているデポ(この方も、眼力が凄い。)と一緒にアイヌの森にキャンプに行くことになり・・。
- デポの森に入る時の”アイヌの森への畏れと深い敬意”を表すが如き、祈りの仕草。
穀類と思われるお供え物らしきものを撒く”チャッチャリ”や、
雨が降ってきて雨宿りしている時に口にする
”雨にも都合があって、降っている・・”
と言う言葉。
何となく、マタギの方々の山の神に対する接し方と似ているなあ・・、と思う。(私の場合、”阿仁マタギ”の方々である。)ー
・デポに”覗いてみろ”と言われた風穴のような、あちらの国と繋がっている、”こちらからは行けないが、あちらからは来れる・・”という洞窟。
そして、デポが密かに飼っていた子熊チビ。嬉しそうにチビに餌を与えるカント。
- 何となく、この子熊の運命が見えてしまう・・。-
・1975年から行われていないというイオマンテの儀式の復活について、話し合うアイヌの方々。
そして、行われたイオマンテの儀式。雪上の血の跡を見つめるカント少年の表情・・。
- 矢張り、意見は分かれるのだなあ・・。今の時代、動物虐待などと、糾弾される危険性もあるし・・。
しかし、私は”アイヌ文化の継承”を考えると、この作品でイオマンテの儀式を写した事を是とする。
マタギの方々が、獲った獲物(熊が狙いだが、近年では猪、鹿が急増しているそうである・・)の心臓を森に捧げ、肉体を無駄なく解体し、等分に分け、大切に食するという話を思い出す・・。ー
<元々、北海道はアイヌの方々の土地であり、名前も”アイヌモシㇼ”であったことは多くの人が知っている事であろう。
そこへ後から乗り込んできた”和人”が、アイヌの方々の文化を否定し、追い詰めて行った歴史も北海道の山々を歩いていた際に、知った事である。
トムラウシ岳、神威岳、カムイエクウチカウシ岳、ホロカメットク岳・・。
アイヌ文化と”和人”文化の融合という大変難しいテーマを、カント少年が成長して行く姿を軸に、描き出した作品。
固有文化の継承の難しさ、先住民族の現代社会での生き方など、イロイロと考えさせられる作品でもある。
<2020年12月29日 刈谷日劇にて鑑賞>
アイヌの課題と少年の成長
信仰は選べる。文化に抗うには周囲との葛藤を伴う。
舞台は阿寒湖のアイヌコタン。 熊送りの儀式「イオマンテ」を通し主人...
北海道という名が付く前
好きな映画
動物愛護時代における伝統精神文化のゆくえ
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