僕は猟師になったのレビュー・感想・評価
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生きるとは命を奪うということ
京都の森でイノシシやシカを狩って食べるという生活をしている男性に密着したドキュメンタリーだ。当たり前のことだが、生きるとは他の命を奪うということだ。菜食主義かどうかは関係ない。命は命であり、そこにいかなる線引きもできない。しかし、現代人は、命を奪う仕事を効率的に他者に任せることによって、「生きるとは命を奪うこと」という当たり前を忘れることのできる生活をおくっている。
この映画は全編、本物の命のやりとりの迫力に満ちている。しかし、本人にとってはそれは日常に過ぎない。本当はこれをすごいと思ってしまう我々の方が、命の基本原則から外れている。「命を奪うことに慣れることはない」と彼は言う。日々、奪った命の重みを実感することで自分の命の重みも知ることができる。
大きなイノシシとの一騎打ちはスリル満点だ。並の映画では到達できないとてつもない緊張感がみなぎっていた。
罠で行う猟に驚く。あと、猪骨ラーメン!
動物が好きで、動物と自分の関係性を突き詰めた結果、猟師として生きる道を選んだという、京都大卒の主人公に密着したドキュメンタリー。まず、アメリカの動物愛護団体の関係者が見たら、卒倒しそうになるような冒頭のイノシシ猟のシークエンスに唖然とします。猟といっても銃を使わない、獣道に仕込む罠で行う方法が斬新。日本には、イノシシやシカなどの害獣がかつてないほど増えていて、その駆除と処分に自治体が悩んでいるという現実が、主人公の生き様と表裏一体になっていますね。イノシシの骨で出汁を取った猪骨ラーメンを、ふーふーいって食べる子どもたちのシーンが忘れられません。……ああ、美味そう。
「命」と丁寧に向き合うといこと
「肉」を食するということは、もちろん「命」あるものを殺めるということです。
猪や鹿が通るけものみちに「罠」を設置して捕獲し、棒で叩いて気絶させる。その場で素早くナイフで急所を刺し、引きずって運び、丁寧にさばく。
血もたくさん出るし、最期の鳴き声、内臓や骨など、自分が直視できるかどうかわからなかったけど、主人公のあまりにも丁寧な所作に、生命の尊さを映像からも充分に感じ取ることができました。
子どもたちも、小学生になったら父と一緒にナイフでさばく手伝いをするし、明るい奥さんの表情なども含めて、素敵なご家族の一面も垣間見ることができました。
そして、この作品が秀逸なのは「命」に丁寧に向き合うご家族との対比として、猪や鹿が農作物を荒らす「害獣」として殺処分されるという一面も捉えているところ。
テクノロジーを駆使して遠隔操作で捕獲したり、捕獲された猪や鹿を、ゴロゴロと運びながら焼却場で機械的に処分する。
現実を知らないことが多いので、語りすぎないようにしたいけど、命との接し方を逃げずに捉えたドキュメンタリー作品として、秀逸でした。
オッコトヌシとバンビ
京都大学で10年間、紛争地域に出向いたりしたが、生きる目標を見失っていたという千松信也さん。ようやく“罠猟師”という天職を見つけ、運送業のバイトをしながらイノシシやシカを獲っている。動物とはいえ、命を貰うのだから余計な殺戮はしない。家族と近所の人が食べる分を獲ったら、それ以上は無駄な殺生はしないのだ。
最初はイノシシを獲って捌くというショッキングな映像。二人の幼い息子もそれを手伝うという光景はかるーくカルチャーショックを受けてしまいます。そして、ちゃんとしたルールも存在し、罠も12センチ以下という法令に基づいて行っている。元々は動物好きだと言う千松さん。自分たちが食べる肉は、他人が殺した動物だということに疑問を持ち、自分が食べるものは自分で狩るという信念のもとに猟師になったのだ。
しかし、さすがに小鹿が罠にかかったのはショック!奈良のシカやディズニーの『バンビ』が好きな人は見ちゃいけない。かるーくショック死してしまいそうです。いや、でも食べてみたい。そして禁猟期間中は養蜂生活。このハチミツも欲しくなってしまいます。
そんなショックの連続の中、野生動物による農作物の被害が年間160億に及ぶとか、害獣処理施設の実情を知ると心が落ち着いてきました。こうなったら、もっと捕獲してまえ~!と、逆に応援したくもなってきますが、それは別問題。とにかく心臓一突きで安楽死させる手腕やけもの道にやたら詳しい千松さんに尊敬の念を抱いてしまうのです。
古来からの自然の摂理、捕食、そして手塚治虫の『ブッダ』さえ思い出してしまうほど、人間と動物の神聖な関係を知らされました。そして覚えた言葉“ヌタ場(蒐場)”。これも人間に食べてもらうための神聖な行為に思えてしまった・・・動物に向き合うこと、命に向き合うこと。大切なことなのですね。蛇足の疑問・・・長女の紹介がなかった気が・・・
命に向き合う
ネコを飼っています。
かわいくてかわいくて仕方ないです。
ニャンとなけば撫でて、
ニャンとなけばご飯をあげて、
ブラシをして、トイレを掃除して。
なんでもやってあげたくなります。
でも思います。
1匹のネコをこれだけかわいがってるのに、
牛やら豚やら鶏やらを、ガツガツ食べているの、
なんか変じゃない?
牛やら豚やら鶏やらも一緒に暮らしたら
とても食べられない。
私の知らないところで、誰かが殺してくれるから、
何も感じず食べることができる。
命の問題でもあり、人間の労働問題(格差問題)でもある。
だけどそんな矛盾は隅に押しやって、
毎日を何食わぬ顔をして生きている。
でもきっと心はこっそり傷ついている。
だからその矛盾をなかったことにしないで、
きちんと向き合っている主人公の生き方には憧れる。
憧れるのにできないのはなぜだろう?
大変そうだから?
リスクが大きいから?
あまりにも世間と違うから?
「ある精肉店の話」という映画を見たときも似たようなことを思った。
自分で殺してない肉は食べてはいけないと思った。
でもころっと忘れて食べた。
ワイズマンの「肉」という映画は真逆で、
まるで自動車工場のようにシステマティックに
食肉がさばかれていく。
ここでも労働問題が勃発していた。
結局、命の序列を勝手に付けているということだ。
それも野生動物や映画の主人公のように
自分の力で狩りをするのではなく、
文明という力や資本という力で、
序列が決まる。
それは自分の命も脅かされているということだから、
やっぱり不健全なことなんだと思う。
だけどきっとまた忘れて日常に戻ってしまう。
押しやった矛盾にこっそり傷つきながら。
動物の命をいただくこと=人間が生きること
一部ビーガンやベジタリアンの人もいるが、ほとんどの人間は動物タンパクを取って生きていると思う。
この作品の中で、普通はなかなか見れないシーンがあり、一見の価値ありだと思う。
自分の経験として、モンゴルのウランバートル郊外でゲルに滞在して現地の生活体験をした事が有る。その時、生きてる羊の命を断ち、解体を手伝った。
動物の命をいただき、何も無駄にしないモンゴルの遊牧民と共通点を感じた。
自給自足農家の猟師ver.
地元京都で週の半分は運送業、残りを猟師として暮らす兄さんのお話。ちな元イケメン京大生(それで取り上げられるのか~😗)。
肉を口する以上は屠殺を人任せにせず、己が獣(自然)と向き合いしっかり対峙しますという矜恃からのこの職業選択。
猟銃で獲物を仕留めるのではなく罠に掛ける罠師であり、罠に掛かった鹿に止(とど)めを刺す時は絵の具のような薄ピンク色の血がピルピルピルとほと走る🩸🦌
そういう生活になったのも師匠との縁でその教えがあってこそ。そういう生活をしてみたい!と思えれば、どんな師匠の元にでも飛び込んでそこから術を学べるというものか🤔
徳島のネイチャー大家族 ファイヤ-ダンサ-🔥の廣川さん家なども最近テレビでよく扱われますが、ああいったネオ?アナログライフに現代生活に疲れた人が憧れる一面はあっても、その通り真似して暮らすのはなかなか難しいやね〜、と、そういうファーマーとお近付きになりながら、現在、一時or永久? 挫折中の自分が言ってみる😒デモマタ稲刈り手伝お🌾
(後日談: しっかりやってきました。)
田舎は映画館が遠いし少ないし~ 、 でもこの兄さんの住んでるとこは市内に車で20分の特に不便でもない所。人と場所も縁。どこかええとこないかな~🤔
【”自分と自分の大切な家族が食べる肉は、自分の家の裏山で獲る” ”ズルをせずに、野生動物の習性を熟知した上で罠を仕掛け一対一で獲る”という生き方を描いたドキュメンタリー作品。】
ー 私事で恐縮であるが、京都には頻繁に足を運ぶ。夜は独りで行きつけの店で酒を呑む。翌日は当然二日酔だが、朝早く起き、酔い覚ましがてら、宿の近くを散策する。そして、京都は街と山地が近い事を実感するのである・・。-
・このドキュメンタリー作品が面白いのは、”普段食べる肉を街で買うのは、何だか気持ちが悪い・・”と淡々と喋る千松信也さんの人間としての魅力である。
彼の家の裏山に住む動物たちを獲る方法は、猟銃を使っての猟ではなく、直径12センチのワイヤーロープを使っての括り罠での猟である。
彼がその罠を仕掛けるコツを話すときの楽しそうな表情。
この罠をかけるポイントを説明する千松さんの言葉は実に興味深い。動物の習性を熟知したうえで、括り罠を仕掛けるのである。
これは、言わば人間と猪や鹿との”命懸けの”知恵比べである。
・彼は京都大学在籍時代から(彼が住んでいたのは、”あの”吉田寮"である・・。)猪猟をしていた!
実に楽しげに千松さんは語るのであるが、命懸けの猟である事は、彼が罠にかかった猪を仕留める姿から容易に想像がつく。
武器と言えば、少し太めの”そこらへんに生えていた”木で、猪の眉間を強打し、最後は馬乗りになって、頸動脈に刃を入れ止めを刺すのである・・。
・彼が妻と子供さんたちと住む家は、”トカイナカ”と言っているが、コンビニまで数分の有名寺社仏閣も多い地域である。
驚くのは、私も時折足を運ぶ京都トレイルの周辺で、猪や鹿が捕獲できるという事実である。(今まで、よくぞ出会わなかったものだ・・)
猟期は11月15日~3月15日 それ以外は、彼はトラック会社で働いている。
・千松さんの生活が地に足がついているように見えるのは、京都大学時代からアルバイトをしていたトラック会社で働きながら、好きな猟をして、家族が食べる肉を調達し、家族に振舞う時の表情である。奥さんも子供たちも美味しそうに肉料理や三日間煮込んだ猪スープのラーメンを食べている。(彼の冷蔵庫は肉でパンパンである・・)
又、蜂を飼い、プロポロリスを自作したりもしている。
何だか、そんな彼らの姿が眩しく見えてしまう、作品なのである。
<サバイバル登山家、服部文祥氏のように”極める”感じもないし、
ー 尚、服部文祥氏の生き方は、彼がK2登山した際”岳人”に掲載された面白きエッセイからほぼ全て読んでいるので、同じことはとてもできないが、共感している・・。-
飄々と生きている千松さんとその家族の姿がとても、自然で素敵に見えるドキュメンタリーの秀作である。>
■補足
千松さんの「ぼくは猟師になった」(新潮文庫)は、登山や狩猟に興味がなくても、とても面白い本であることは、記載しておきたい。
いきものの「いのち」をありがたくいただく
ヒト以外の動物は自分と家族が必要とする以上の捕食をしない。
ヒトは食べるための命を「生産」し、自分の手は汚さずに、必要とする以上の殺生をし、食べられず余ったものを捨てている(日本だけでも年間600万tの食品ロスが発生する)。
ヒトは飽くなき欲求を満たすかのように、必要以上に殺生する最も罪の大きい生き物だ。
TV番組で肉食動物が草食動物を捕食するシーンをみて「残酷だ」という人がいる。
が、人間は不自然に家畜を生育させて、機械的に屠殺していく方がよっぽど残酷な行為で、そのようなシーンは絶対にTVでは放送されない(映画ではFood, Inc.など優れたドキュメンタリーがある)。
私たち全員がveganになるべきと言っている訳ではなく、自分もそのつもりは全くない。
必要以上の食べものを求めない、出された食事はきっちりいただく。一人ひとりの心がけ次第で変えることができるものもある。
千松氏の生き方は人類が本来おこなってきた生き方そのもの。彼は捕らえた獲物を売るわけではないので「ビジネス」ではなく、家族が食べるために猟をするので「趣味」でもない。まさに「生きる」こと、そのもの。
ワナ猟(ククリワナ)は思っていた以上に奥が深く、ワナのしかけの段階はイノシシとの知恵の勝負(イノシシの方がシカよりも慎重で知恵とパワーがあり格段に難しいらしい)。ワナにかかった後は、エモノとの白兵戦で命をかけた戦い。最後のシーンはまさに手に汗握る緊迫した命のやりとりだった。
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