「見える恐怖と見えない恐怖、どちらがお好き?」透明人間 ao-kさんの映画レビュー(感想・評価)
見える恐怖と見えない恐怖、どちらがお好き?
“透明人間”を描く作品にとって、如何にしてその存在を見せるか?が命題となってくる。しかし、これは『インビジブル』がクリアしていると言わんばかりに、本作の透明人間はなかなかその姿を現さない。むしろ、いるのか?いないのか?いや、そこにいるはずだ、という心理的アプローチでその存在を示す演出に重きを置いた。
嫌がらせメールの送信や書類の抜き取りなど、日常生活における小さな嫌がらせを積み重ねることで元恋人を心理的に追い詰めていく透明人間の行動は何も透明にならなくとも出来てしまう点に恐怖のリアリティがある。私には分かる、彼はそこにいる、その訴えを信じてもらえない苦しみが徐々にヒロインの心を蝕んでいく。“見えない透明人間”ではなく、“見せない透明人間"という演出に、なるほど、その手があったか!!とつい頷きながら、スクリーンを見つめてしまった。
しかし、一度透明人間がその姿を現わすと、恐怖演出は身体的な暴力に切り替わる。それまでの心理的恐怖に関心した身としては、このギアの切り替えに落胆した。見えない暴力性にこそ透明人間の真の恐怖があったのに、従来の“見えない透明人間”の型に収まってしまったように思えるのだ。とはいえ、これは完全に好みの問題。よく言えば、ここから物語に拍車がかかり、透明人間との一進一退の攻防をテンポ良く繋ぎ、ひねりの効いたラストまで一気に駆け抜ける。
ポスターに書かれた「見えるのは、殺意だけ。」というキャッチコピーはなかなか洒落ていると思ったが、映画を見終えると“見えなかった殺意”にギョッとさせられた。そう考えると、私が不満に思ったこの恐怖演出のギアチェンジも透明人間の“人間性”の差によるものと考えると合点がいくのかもしれない。