「言葉は民族の精神を盛った器」マルモイ ことばあつめ きりんさんの映画レビュー(感想・評価)
言葉は民族の精神を盛った器
言葉は民族の精神を盛った器
僕が敬愛する東京の牧師さん、・・もう亡くなられたが。
あの方はハングルと朝鮮語の会話を長く勉強しておられた。
「○○くん、語学を習得するということはねー、これは本当に大変なことなんですよ、ホッホッホ」。
小柄で、垂れ目で、ベレー帽が似合う。柔和な笑顔の先生だった。
1970年代、韓国でパク・チョンヒ(朴正煕)大統領が、韓国国内の民主化活動家を徹底して弾圧していた頃に、穏やかなお顔に似合わず、その民主化活動や亡命者たちの受け入れを、ここ日本の地から密かに支えていた先生だ。
「日本はね、朝鮮の人々から言葉を奪ったのです」。
先生は(日本語はペラペラに話せる世代の)韓国からの年配のお客さんと面会する時にも、先生は敢えて頑張って朝鮮語で会話をするように努めておられた・・
あれはまさしく、
《かつて言葉を奪ったことへの償い》と、
《異国の言語を学ばされた かの地の人々の 語学習得の難儀をば我が身に負うて追体験する》ためであったのだと、僕はあの笑顔の底にある強い意志というものを、はっきり理解していました。
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台詞の発音の問題 ―
本作は、映画の配役と人選について問題ありでした。
日本人の僕として観ている立場からするとかなりの混乱が起こります、
リュ代表を締め上げる「眼光鋭い制服の男」の喋り方が、これが
「総督府の役人で内地から派遣されてきた『日本人』官憲の人間」なのか、それとも
「朝鮮の人間なのだが率先して日本の手先になった=創氏改名を済ませた『地元民』」の哀しい姿なのか、
・・恐らくそこまでの深読みはなしで、脚本上前者なのだと思いますが、あの日本語の発音を韓国人キャストの口を通して我々が聞くとき、どちらの立場の人間なのかがちょっと判明しなくなるのです
あのへんは日本人俳優を一人立てて使うべきだったのではないかと、日本と韓国の両鑑賞者のためにも、これは残念だった点です。
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邦画で
「辞書編纂」がテーマになった映画といえば、加藤剛、松田龍平、宮﨑あおいの「舟を編む」が名作でした。
膨大な数の言葉カードを収集し、生きている日本語を丹念に辞書に分類し 残していく、あの地道な作業。
あれに心動かされた人ならば、本作「マルモイ」( =朝鮮語で辞書作成のための「ことばあつめ」)もご覧になったら良いと感じました。
劇中、何度も京城(キョンソン)駅が登場します。
主人公リュ代表にぶつかってきた駅前広場の男の子の、咄嗟に出た言葉
・男児「すみません」
・リュ「朝鮮民族なら朝鮮語を話しなさい」
・男児「朝鮮語は話せません」。
言葉を失うリュ。
日本政府の出先機関=朝鮮総督府の命により、学童の世代から粛々と確実に、教育の力で、母語と民族へのプライドを失わせていく“植民地における同一化政策”。
親世代と子世代・孫世代が家庭内で会話しづらくなる。そうやって民族の魂と結束を壊していく。
植民地政策の悪魔性です。
これが逆の立場だったらどうだったかを、僕らは想像してみるべきではないか・・
石川啄木の金字塔
「ふるさとの訛り懐かし停車場に
人混みの中に そを聞きにいく」
・・この句が誕生しなかったかもしれないのだから。
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◆「第二次世界大戦後、独立を回復した国の中で唯一自国の言語を取り戻した国家となった」
このラストのナレーションはあまりにもあまりにも重たい。
◆DVDを2枚購入した、
1枚は北海道で機関誌「アヌタリ・アイヌ」(われら人間)を主宰している友人に、
1枚は沖縄で琉球語の伝承と琉球独立学会に携わっている友人へプレゼントだ。
タンポポの綿毛は、ふわふわと頼りないが、命を秘めて風に乗り、人の心に言の葉を芽生えさせる。
沖縄・糸満市の摩文仁、「平和祈念資料館」に行ったとき、掲示されていなひとつの公文書にがく然となった
「今爾琉球語ヲ使用スル者ハ間諜トシテ処断ス」
とあった。
日本軍参謀本部からの命令書だ。
”言葉が通じない“ということは、それだけ為政者にとっては脅威なのであり、支配の障害なのだと、あの紙片は証明している。