「疑わせる映画」ルース・エドガー maruさんの映画レビュー(感想・評価)
疑わせる映画
鑑賞者に「先入観で人を疑うべからず」と訴えたいのだろうが、オチがないのは頂けない。
劇中、全部を「ルースがやった」ように見せているのだから、ルースがやったのか?と思うのは仕方のないこと。
途中から「教師がやった」ように見せてくるのだから、教師の自作自演か?と思うのも仕方のないこと。
小屋で元カノのキムがルースと抱き合いながら、ルースの母親を挑発的な目で見るもんだから、黒幕はキムか?と思うのも仕方のないこと。
ルースの母親のとっておきの隠し場所に違法花火がなかったとき、スグにルースが現れ、ルースの口から「芝居がうまいんだ」とか言ってしまえば、父親が処分したかもしれないという発想は1mmも生まれることなく、ルースのしわざに思えてくる。
1番ありえるのは、ルースが二重人格になってしまったということ。それを知るのはキムのみで、キムはルースに好意をよせているから、周りに黙っている。真面目で模範的で誠実な「光に当たるルース」の存在と、7歳まで祝日という概念を知らないほど過酷な環境にいた、三つ子の魂百まで的に心に根付いた「闇」の存在。
ルースを養子に迎えた白人の両親も、治療に相当のお金を使ったところをみると、かなりのトラウマ体験を克服してきた様子もうかがえる。そうなれば、自我が芽生え、知識が身に着くほど、光と闇の心の葛藤は、思春期の子どもにはかなりのストレスになるはず。
期待に応えよう、みんなの手本に、目指す目標に、「光」であるようにふるまうルース。登壇して大勢のが「自分のことを見ている=光を見ている」ことに、抑揚するが、ランニングの場面=一人になると自分という存在がわからなくなる。それが、ラストシーンですごく語られている。
自分が輝いている間=光でいる間(模範的、あこがれの対象)である状態では、羨望のまなざしを受けるが、もし自分が模範的でなくなった場合、完全な闇になってしまうのではないか。これまでと同じようにみんな対応してくれるのか。そんな不安が、ラストシーンのランニングで現れる。
…しかしながら、結局のところ犯人がわからないまま映画は終わる。
それは、人種関係なく、人としてそうだと思うが差別の対象になる人種に対して「貴方たちが活きるには模範的でなければならない」といわれているようで、そんな皮肉も感じた。
痛切なすごい良い映画。