劇場公開日 2020年6月5日

  • 予告編を見る

「ルース、討論のように正々堂々とたたかって!」ルース・エドガー ku-chanさんの映画レビュー(感想・評価)

5.0ルース、討論のように正々堂々とたたかって!

2020年7月13日
PCから投稿
鑑賞方法:DVD/BD

こんな強烈で、人を引き付けるのストーリーの映画を観たことがない。聴衆者がまぎれもなくこのストーリーに引き込まれていき、参加できる映画で、主に学校と家庭だけの会話で視聴者に質問、問題点を投げかける。

BLMのデモの動きの中、白人が作ったシステムをかえ、他民族にも合わせたシステムを作ろ
うとする運動が活発化している米国の現実に、ちょうどマッチする作品になっている。

エリトリアの戦争地域で少年時代を過ごし、米国バージニアのアーリントンのキャリアのある裕福な白人家庭にもらわれたルーズ。(ケビンKelvin Harrison Jr.)治療したが、まだPTSD symptomsが癒えないルースなのかも。統合失調症的な要素をもつ性格、二重人格、人を笑顔で操れる高校生。美しい笑いの中に何か秘めている事実がある。その笑いが時々、無理に作っている笑いのように見える。

ルースの正直さが見えないから両親は何が本当か探そうとするが、母親のエゴを通して過保護的にもなる。母親を学校まで送らせて、多分彼がウイルソン先生の教室に仕掛けた花火の惨事をみせるなどという企みを図る。奔走したり、疑ったりする母親を見ているのも辛い。

高校生のルースが大人を操っているようの演技していて、何が本当なのか、誰がしたのかわからなくなっている。その中で、他の映画ではこういう疑問はなかったが、この映画の場合は黒人の作った映画だと思え、どんな人かと思い、映画を観終わってから調べたら、ルースのように監督はアフリカのナイジェリアから10歳ぐらいに米国に来て優秀な経歴を持つ黒人だとわかった。

アーリントンのノバ高校では南部連合の旗(the first flag of the Confederate States of America)が降ろされていくのがウィルソン先生の教室の窓から見える。バージニア州でも米国社会の変化の影響が出てきていて、人種差別の象徴の旗は公立の組織からなくしているのも監督の裁量だろう。

白人の友達が黒人の同級生をBlack Blackというがルースに対してはルースだという。ルースは受け入れるが、他の黒人はうけいれられないという差別。こういう差別はよく聞く。監督もルースのように言われてきたのかもしれない。

ウィルソン先生の教室の飾りは彼女の性格や思想を反映している。シーザスチャベス、オバマ、マザーテレサ、キング牧師の写真が貼ってあるし、世界地図はアフリカが中心に見える。私個人の教室も半分は私の哲学が現れているホスターでもう半分は生徒のためのポスターが貼ってある。

ウイルソン先生とルースの思想の戦いが圧巻。これに焦点を絞って書こう。

黒人同士は黒人に厳しい。家庭の躾もそうだが、ルースが夜、ジョギングをしているが、黒人家庭だったら、特に息子には親は夜、暗い中ジョギングをするなというと思う。肌の色が夜と合わさって、夜、動く犯罪人と間違われて殺される可能性があるから。

ルースは白人の家族に育っているから、親からこういうことを言われていないという意味でも『自由』スピリットで育っている。
両親が『Our Black Son 』といって息子を守らなければならないと言ってるのは過保護で、現実の問題点から逃げようとしている。彼のエリトリアで生きた頃の精神問題PTSDを治療したと言ってるが、戦火で、子供心に人にうまく頼って生きるための策略を心得てきていることに疑問点を感じていない。
ここでなにかおかしいと感じているウィルソン先生の第六感は正しい。なにかきな臭いものを感じている。私も先生なので、このウィルソン先生の第六感や生徒がなにを書く(描く)かにより、深層をみることができるのがわかる。

黒人のなかの世代や背景の違う二人の黒人(ルースと歴史のウィルソン先生)黒人のなかにある根強い問題を追及する映画になっている。

社会の有能な黒人は評価され認められる。でも、一般の黒人は人間一人の価値よりまとめてblack Black (ルースの白人の友達がいうように)という見方を社会からされるようだ。

これを『公民権運動』でやっと自由を勝ち取ったが、まだまだ白人が作ったシステムの中で生きている黒人(例えば、ウィルソン先生)にはbest/perfect にならなければ社会から認められないと考えてる思想がある。だからアメリカ生まれじゃない黒人の生徒(ルース)にもパーフェクトを望むし、黒人の代表、完全である良い見本という期待感がある。ルースの友達ディシャンは先生のいうパーフエクト候補ではないからアスリーのスカラーシップも落してしまう(ルースのような生徒はどこもかしこも奨学金をくれるし、彼の家庭はそんなものはいらない。でも、ディシャンにはこれが唯一だったかもしれない)。はっきりいって、優秀でありリーダーになりそうな黒人は箱の中に入れて育てたい。ここから外れるものの面倒はみない。これが、ウィルソン先生の思想。自分の妹に対しても。

しかし、ルースはエリトリアの戦争地域から今の両親に救われて、アメリカの『自由』をやっと満喫していて、学業、スポーツ、討論などでも自分の力を試していて、自分のなかでベストを尽くすことを学んでいる。でも、学校の期待も背負っている生徒。彼は自分のことを米国社会(特に奴隷制度の名残の黒人社会)がみているステレオタイプの枠に自分を入れられないし、ウィルソン先生のいうパーフェクトを望む黒人の世界のエリートの思想にも足をいれない。『黒人であることは十分じゃない!』とルースにウィルソン先生は感じさせる。
ルースは人間として、自分の人生の戦いに挑んでいるが、ウィルソン先生は黒人としての戦いをルースに望んでいる。

黒人のなかでベストになるには完全でなければならないというウィルソン先生の思想とは相容れない二つの見解の戦いである。

最後のシーンでルースは母親に『もう一度やり直せるチャンスがある。』というが、ウィルソン先生は? ルースよ、卑怯な行動を取らず正々堂々と戦ってほしい。

Socialjustice