ハニーランド 永遠の谷のレビュー・感想・評価
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大自然との調和
心温まる映画。その上、大自然を満喫できる上、大自然との調和を体と知恵で感じ取っている。そして、生きている。このドキュメンタリー映画を三年かかってとったらしい。主人公ハティジャが蜂蜜を全部取らないで『半分蜂のために』といってとっておく。それをまた、トルコ(?)の家族の子供の一人に教えるシーンが好き。自然の生き物と共存することにより、自然を破壊せず、お互いに生存できる。この生き方が大切だ!
それに、ハタジャは遊牧民のようでトルコ語を話す家族が、車と家畜を連れて現れた時、怪訝な顔つきでいたが、すぐ子供達と友達になり、今までの人生とかわり、活発になったが、商売熱心の家族の父親は自然との共存より、生活のため蜂の巣を探し求め、量産し始めた。でも、家畜が病気になって、この土地をさった。その時の、ハタジャの寂しさ。『冬を何度も迎えた』と最後の母親の言葉。ハタジャの寂寥感。季節は巡り、春になって、彼女は誰もこられなそうな山の中腹にある蜂の巣を見にいく。この大自然の中で生きる彼女に地球温暖化の影響を聞いてみたい。
蜂と共に
蜂と共に生きる、比べない慎ましい生活。
淡々としているが、彼女の生活が容易でない事はよそ者の登場により思い知らされる。
誰しもが彼女と同じようには出来ない、養蜂にしても手順通りにさえ真似できないのだ。
蜂がデリケートだとは話に聞いていたが、育てる人の影響をもろに受ける蜂たちに納得が行った。
よそ者たちに象徴されるように、自然の前では無力な人間を見る事で、彼女の自然賛美の生活の美しさが際立つ。
お洒落をしたり子供を愛おしく思ったりする彼女
、遠くを見る横顔に哀愁を感じずにはいられない。
自然とsynchronizeする彼女の生き方
養蜂を営むなかで自然からの恵みをいただく北マケドニアのひとりの女性。出来上がった蜂蜜を決して独り占めすることなく、蜂や自然と共存する姿がとても印象的だ。
そこに突然、村やってきたトルコ人一家。彼女やその周辺にとってnoiseでしかない。大量の家畜を放ち、教わった養蜂でも出来上がったものを全て搾取し売り払おうとする姿は、自然界に飛び込んできた「文明」を表現している。
女性の生活どころか、周辺の自然を破壊していく様は、残念ながら私たちの生活する姿そのもの。
徹底した生産性向上、効率化の近代化された社会の縮図に他ならない。
では彼女のような生活ができるかと問われれば、自分含め誰もできる話ではない。
人との設定がほとんど隣の家族(彼女にとっての「好まざる来訪者」)しかないので、彼女と社会の接点が見当たらない。自由を享受するというのは、こういう状況のことなのかもしれない。
厳しい自然環境のなかでの「自由」をとるか、制約された不自由ななかで自動化された「快適」環境を享受するか。
ときおり空中を飛ぶ戦闘機の姿が印象に残っている。
取り残された孤独の地
そもそも。ドキュメンタリー好きは暗い話の方が好き。シリアスなものに惹かれる。未知の世界を見せてくれそうなものほど、興味をそそられる。このポスターは逆効果だよなぁ、と、まずは思った。アカデミー二部門のキャンディデイトと言うだけでもワンサカと人は来るって。
わたくしは、バルカン半島深部の北マケドニアと言うだけでも「行かなくっちゃ!」って思いました。
欧州最貧国の一つであり、国土の殆どが山地と言う北マケドニアは、NATOにもEUにも加盟していません。と言うより、「お荷物になることは明らか」なため加盟させてもらえてないと言った方が良い。時代の流れから取り残された様な集落には、電気も水道も無く。ここは21世期の欧州なのかと衝撃を受けつつも。これがバルカン半島?コソボもセルビアも、こうなのか? ガバナンスの緩い共和国で金が無ければ、こうなるのかと。もう、ここが衝撃。
ナレーション無し。字幕無し。音楽無し。
ワイズマン手法です。淡々とバディデーとサム一家の日々を追いかけます。
人々にうち捨てられた様な、小さな集落跡の一軒に、盲目の老母とともに暮らすバディデー。断崖のミツバチの巣から蜜を採取する場面から始まるドキュメンタリー。
1964年生まれの彼女。町に蜜を売りに行きEUROを稼ぎます。髪染めを買って帰る彼女。帰宅後にカメラがとらえる母親との赤貧生活。耳の遠い母のために大声で話すバディデー。彼女は、無人となった集落の壁の中に一つ。空き地に設けた数個の土の塔に。ミツバチを飼う原始的な養蜂家。土の塔の頂きには、第一次大戦に参戦したいずれかの国の錆びたヘルメットが被せられています。戦火は、こんな奥地にも及んだという事なのでしょう。
いずれにしても。孤独と孤立の生活です。
そんな中、集落の空き家にやって来た酪農家のサム一家。5(?)人の子供と夫婦。不安そうな目で入植を見つめていたバディデーでしたが、徐々に、子供たちと近づいて行き、特に次男はバディデーに懐きます。
バディデーが経験する、どれだけ振りかもわからない「家族」の空気感。
現金が必要なサムの父親は養蜂にも手を出し、出荷を焦り無理やり集荷したことが引き金となり、バディデーの巣のハチは死に絶えます。町からやって来た、サムの親戚(?)の強引なやり口は、更にバディデーの生活を苦境においやります。
狂牛病で50頭の牛を失ったサムは、ここで生活して行く事は不可能だと、子供たちを連れ、牛を引き連れ、去って行く。
そして母親も天に召され。
冬枯れていく山々。
孤独。孤独。孤独。孤独。
どこを見渡しても、一人だけの世界。
時折、はるか上空にたなびく飛行機雲と、耳に届くジェットエンジンの音が、ここは、確かに現代社会なのだと思い出させてくれます。高地に取り残された人々。文明から取り残された山岳地帯。誰が死に、誰が生まれようと、そこにある孤独の姿は、何も変わらない。
Honeylandは、全てから取り残された孤独の地。
生きていく意味も、死の意味も、何が違うと言うのか。
心地よさを感じる「Honeyland」と言うタイトルと暖色のポスターは逆説だと思いました。が、「永遠の谷」って言う邦題のサブタイトルは何なの?
全く持って意味不明ですからw
生きることは過酷
北マケドニアでの養蜂家の生活を撮ったドキュメンタリー映画。
半分は自分に半分は蜂に、持続可能な生活を送っている。今日本の政府が言ってる流行りのSDGsを何年も前から実践してる。
病気はしないのか?口元のアップで気になった歯槽膿漏を治療しないと、などどうしてるんだろうと思えることも有るけど、もしも病気になって、自己免疫力で治せない時は死ぬ時なんだろう。
自分の今現在の環境に感謝する気になれる作品でした。
あの女性は今どうしているのだろうか
彼女は蜂にも人にも優しい。しかし、そんな彼女も年老いた母親の世話をするときは、イライラが出てしまって、厳しい。目も耳も不自由で、寝たきりの母と二人きり。こんな自然豊かなところでも、都会の砂漠でも、介護のつらさは一緒なんだなぁと。暗い洞窟のような石を積み上げた山の家は小さな明かり取りがあるだけで、虫の羽音が常に聞こえる。蜂かと思っていたら、ハエのようだ。衛生状態も良くない。首都の町の市場で天然の無添加蜂蜜を売り、そのお金で、毛染めクリームを買った時に、扇子をおまけでもらった時の嬉しそうな笑顔が忘れられない。もともと、母親のためにハエ避け目的で買おうとしたものだ。まず、母親の毛を染めてあげる。次に自分。寝たきりの母親に手伝ってよと話しかける。無理だよ、と母親が返す。そんな暮らしであるが、母親との朴訥な会話のやり取りを聞いていると、彼女の置かれている現状が身にしみて来て、心配で辛くなる。二人きりの親子の最後は突然やって来たかのようだが、実際はだんだん弱って行く母親を世話をしながら、ひとり取り残される寂しさと闘いながらである。
トルコ人の家族と一緒に聴いたトランジスタラジオをつけて、「お母さん聴こえる?」って家の外から言っても、返事がない。夜、明かり取りの窓から漏れる蝋燭の光と嗚咽。とうとう、ひとりになってしまった。それでもまた、彼女は切り立った崖に登り、蜂蜜を取りに行く。
キャンピングカーで越してきた牛の放牧を生業とするトルコ人の家族の子供に接する彼女も優しかった。養蜂を彼女から教わり、良く理解して、師匠と弟子のようについてきた子もいなくなってしまった。「あんたみたいな息子がいたらね」という彼女には諦めの表情もとくに浮かぶ訳でもない。静かで、聡明な彼女は今どうしているのだろうか。
廃村で大自然と共生する人々が織りなす剥き出しのドラマに胸が締めつけられます
電気も水道もない北マケドニアの廃村に年老いた母と暮らすハティツェ。養蜂を生業とする彼女はハチと共生するため巣から蜂蜜を半分しか取らないと決め、僅かな蜂蜜を首都スコピエの市場で売って生計を立てていた。そんな廃村に沢山の牛を引き連れて突然現れたトルコ人の一家が引っ越してくる。しばらくは親切に身の回りの世話を焼くハティツェだったが、絶妙なバランスの上に成り立っていたはずの二人の生活が少しずつ崩れ始める。
一切のナレーションを排して廃村に暮らす人々にぴったりと寄り添うカメラが映し出すのは美しい大自然とその中で暮らす人間の清貧、無邪気さ、逞しさ、そして剥き出しの感情。ここまで赤裸々な人間模様を一切の演出なしに引き出すに至る人間関係を構築するだけでも途方もない時間がかかったことでしょう。自然と共生することの崇高さを丁寧に掬い上げたカメラは今度は一転して人間の欲望が破壊する自然の儚さを切なく見つめる、90分に満たない短い尺に封じ込められた3年間のドラマはずっしりと重く、胸を締めつけられました。
今年のオスカーで長編ドキュメンタリー賞と国際映画賞に同時にノミネートされたのも納得の圧倒的な存在感を持つ作品です。
なぜ、蜂に刺されないんだろう?
ずっと不思議でした。途中刺された人もいたけど。
主人公は強いですね!
夫婦げんかは呆れました。
一席空きのシートにぬいぐるみが置いてありました(^_^)
いいドキュメンタリーでした。
典型的な欧州伝統ドキュメンタリー映画
劇映画のようにコテコテに作り込まれた、いわゆる伝統的なヨーロッパのドキュメンタリー映画といった作品。
個人的にはかなり苦手な部類と認識しつつも、質の高さと劇的な展開に魅せられた。
そのあまりに洗練された映像や音楽に疑わしい眼差しを投げかけてしまうのだが、それはあくまで個人的なうがった見方。核心的な真実はついているとは感じるので、素直にカッケーなどと思ってしまった、感情的に揺さぶられることはなかったけれど─。
ただ、非常に優れた作品であることは間違いないと個人的には思う。
内容全てウソ偽りないものだとすると、それはそれで問題があるような気がするけれど…
カルチャーショックを受けた…
すごく見応えがあり見入ってしまうのだが、真剣に見れば見るほどカルチャーショックを受け心が不安定になっていた。
もちろん日本、そして自分が育ってきた環境があまりにも平和であることを実感させられるかるこそこの作品で映し出される生活に強くカルチャーショックを受けるわけだ。
まずは主人公の女性の母の姿に驚かされた。顔の上半分はもうすでに腐った状態である。あの状態がどれくらい続いてるのかは分からないが、それでも85歳まであの環境下で生きてきたわけだから人間の生命力に感心させられる。
そして蜂蜜を取る姿だが、防護マスクを着けるときもあれば着けなかったり。そして基本的には素手で取る姿はあまりにも驚いた。主人公の女性だけではなく、隣人のトルコ人家族もまた同じような姿を描かれ、そこにはまだ10歳にも満たなさそうな少年や、5歳にも満たなさそうな少女達も同様に蜂に挑み、顔や体を蜂に刺されても普通に生活している事に驚かされた。
特に彼らトルコ人家族の姿を見ていると不安な気持ちでかき立てられる。
親牛に蹴られたり、踏みつけかけられたり、川では溺れかけたり…かなり危険と隣り合わせの生活をしているのが映し出される。その度に子供たちの身が心配になり不安な気持ちで一杯になるのだが、彼らにとっては生活の一部でありまた生きる為には当たり前の事なのだろう。
ここに挙げた以外にも日本では、そして自分自身やその周囲の生活の在り方では想像もつかない姿が終始描かれている。
僕自身はこの作品を見てもちろん何より今の生活に感謝の気持ちで一杯になったのがなによりだが、同時にカルチャーショックを受け少し気分が悪くなってしまった。
この作品をみて色んな感想、思いが各々あると思うが、僕自身はこういう作品をみると今の生活において、小さなことでも感謝の気持ちで一杯にさせてくれる。
そして感謝の気持ちの先には必ず豊かな出来事が待っているような気がする。そういう点においてこういう作品を見ると自分自身を豊かにさせてくれる非常に貴重な時間を過ごせたと思って劇場を後にした。
自然と人間との見えない協定と調和
北マケドニアの小さな村で、自然で巣を作るミツバチから半分蜜を採取して暮らす女性が、トルコ人一家が近所に住み着いたことで、生活様式が激変していく。
ミツバチとの共存共栄の方法を知り尽くしている彼女と、とにかく養蜂用の箱を大量に自作して蜜を採取しようとする一家の、お伽話のような分かりやすい対比。
そこにあるには、自然と人間との、見えない協定と調和だ。
ただ、中盤以降の一家の父親とハチミツの売買を交わす行商人とのやり取りに難アリ。
会話内容やカメラアングルやカット割りに、作為的、ハッキリ言えば「やらせ」っぽい演出を感じてしまった。アカデミー賞2部門にノミネートされるも両方とも逸したのは、そのあたりが原因だったのかなと邪推。
頑張っても生まれた土地で決まる人生がある
頑張って、心優しく、親も大切にしているのに、生活はとても苦しく。
恐らく裕福になることを求めているわけではないと思いますが、普通の生活ができるようになるにはどうしたらいいか、おそらく、あの土地では無理なんでしょう。
電気が通じれば幸せではないし、ご飯が買えれば幸せなわけでもないけど、お母さんはお金があっても元気にならないだろうし、どうしようもないことを映画を見ながら悲しくなります。
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