「原作と違っても、面白ければ構わない」ドクター・デスの遺産 BLACK FILE つとみさんの映画レビュー(感想・評価)
原作と違っても、面白ければ構わない
原作未読な為比較は出来ないが、映画「ドクター・デスの遺産」に関して言えば、これは間違いなく安楽死を隠れ蓑に「美しい死」を求めるドクター・デスと、それを追う刑事たちのサスペンスドラマだ。
そして、その点はかなり面白く、テンポも良く、主人公・犬養と高千穂のバディ感も良い。
「安楽死に関する諸問題」をサスペンスと並走させて描き出そうと思ったら、とても2時間の枠には収まらない。そこで、生きるエゴイズムと死ぬエゴイズムの間で揺れる役割を犬養に一手に引き受けさせ、残りのキャストは快楽殺人者ドクター・デスの造形を浮き彫りにし、ドクター・デスを追いかけていく、という思いきった割り振りになった。
ストーリーを「娘と生きていく希望」を掴めるか否か、というシンプルさに絞ったお陰で、サスペンスとして見応えのある作品に仕上がっているし、素直に犬養を応援できるのだ。
この点について批判するのはお門違いも良いところ。原作を愛するあまり、映画に文句を言うのはナンセンスだよね。
映画のドクター・デスは、人の安らかな死に顔に「美」を見出だすシリアル・キラーで、患者たちの最期の感謝は自分の全能感を後押しする讃美歌のようなもの、と感じている。そういう解釈で良いんじゃないかな。
事件を追う者でありながら「安楽死」について一番揺れるのもまた犬養だ。
冒頭、娘・沙耶香のいる小児病棟で、犬養は同じ病棟に入院している男の子とオセロに興じている。沙耶香とは遊ばず、他の子どもと遊んでいるのは、犬養が上手く沙耶香の病状に向き合えていないことの現れだ。
沙耶香の闘病に対して、他でもない犬養自身が「苦しむ娘」を直視できない。1日に何時間も透析を受ける沙耶香は、きっと自分より先に死んでしまうのだ、という諦念が犬養の中にあるから、沙耶香と二人きりになってその思いを悟られたくないのだ。
似顔絵が一致しない件について、犬養が遺族の心理を言い当てられるのはドクター・デスへの思いを当事者として想像できる状況にあるから。
安楽死を提供したドクター・デスに対して、「恩人」という表現が出てしまうのは(それが例え否定的なニュアンスを含んでいたとしても)、安らかな死を「救い」のように感じているからとしか思えない。
その犬養の心理は、重要参考人として対話する元看護師の雛森とのシーンで浮き彫りにされる。雛森は「何も知らなかった、何も覚えていない」と主張する一方で、「患者は皆幸せそうだった」と述べている。
苦しむ人を救う為の死、ドクター・デスの行為を肯定するかのような雛森に対し、犬養は語気荒くドクター・デスを否定する。
雛森の語る言葉は、そのまま犬養の隠された思いだ。犬養自身が何度も考えたことだ。
そして、何度も「考えてはいけない」と封印してきた。自分の心の蓋を抉じ開けるような雛森の言葉に抗うには、汚い言葉でその思想を否定するしかない。
ほとんど反射のようにドクター・デスの行為を忌み嫌うのは、己の中にある葛藤への防御反応なのだ。
しかし、雛森に「もし、娘が死を望んだら?」と訊かれて絶句してしまう。沙耶香の生きる希望を確かめられずにいた犬養には、その問いを捩じ伏せる力がなかったのだ。
ドクター・デスを追いながらも、次第にドクター・デスの語るうわべの「幸せ」に飲まれそうになる。そんな犬養に転機が訪れるのは、ドクター・デスの「死」に対する表現だ。苦しみから解放され、その幸せに感謝する患者の死を、ドクター・デスは「美しい」と口走った。
散々「救いを与える」と自らの行為を利他的に表現し、自己中心的な「生」からの解脱を唱えていたドクター・デスの根底にあるのは、自己犠牲でも苦しみからの解放でもなく「美しい死への欲望」なのだ、と気づいた。
ドクター・デスの罠にかかった沙耶香もまた、「お父さんともっと生きていたい」と犬養に思いを伝える。
犬養や沙耶香とドクター・デスとの決定的な違いは、「苦しくてもカッコ悪くても生きている」方が「解放されて安らかに死を迎える」より美しい、という価値観。
仕事と看病に追われ、沙耶香の帰ってくるはずの家が荒れ放題だった犬養が、沙耶香のために塩分を抑えたお弁当を作ってきたシーンは、「生きたい・生きていて欲しい」というエゴを完全に受け入れた勝利のシーンだ。
沙耶香と向き合うことすらままならなかった犬養が、沙耶香の恋人話に動揺するぐらい、父娘二人の未来を想像できるようになる。
複雑に交錯する胸のうちを、綾野剛の演技力でカバーしきってしまおうというのは確かに荒業だが、サスペンスとしても父娘ドラマとしてもバディ・ムービーとしても楽しめる。
「犬養隼人」シリーズとして続編があったら、また観に行きたい。