「狂気と復讐への渇望。」THE BATMAN ザ・バットマン yusuke hicksさんの映画レビュー(感想・評価)
狂気と復讐への渇望。
今回のバットマン映画は今まで作られた、どのバットマン映画とも一線を画している 。
繊細で脆く危うく狂気に満ちている。
(人としてのバットマン)
ブルース・ウェインは親が殺害され幼少期に孤児となるのだが、親の不在、ひいては父親の不在は、子どもに強い不安とストレスに対する弱さをもたらす。幼い時期に父親不在だった人は、うつに罹患するリスクや、不幸だと感じる割合が高いというデータもあり、アイデンティティの構築を大きく阻害をさせる。
今回はそんな自分自身に内向的な悩みを抱えている繊細なバットマンが見れたのは新鮮でとても嬉しかった。
若き日のバットマンを支えるのは、もう存在しない親への渇望、それを一心不乱に忘れるためにバットマンとして夜な夜な街へ出ては悪と戦っているようにも見受けられる。
本来の目的である町を救うという目的は今回のバットマンでは自我を保つため、一時的な救済を得るため、個人のアイデンティティが不完全であるという現実から逃避するために戦っているように感じた。
戦う対象が外部の物理的な敵というよりは自分自身という敵という形にも見える。
それは彼自身が映画の中で『この街はもう救いようがない』というセリフからも見てとれる。
(罪と罰)
映画の中で『親の罪は子に報う』という台詞があり実際に登場人物たちはそれぞれが違った形で償ったか、またはそのプロセスの段階にいる。
親(自分達以前の人たち)の罪を子(現在の人たち)に報うという点は現代的テーマであり、実際の社会の環境問題・アダルトチルドレン・格差社会などに当てはまる箇所が多かった。
(ブルースの出した答え)
結論から言うと彼は答えを探し出せてはいない。 自分の答えに『到着した』と言う表現が一番正しい表現だと思う。
もっと明確に言うなれば、一つの答えに到着して次の答えに向かっている最中である。
それは映画の最初と最後で流れるNIRVANAのSomething in the wayが音楽的に暗意しているからであるようにもとれた。
最初の曲のシーンではひどく疲れ、地に足がついていないブルースが映し出され 最後の曲シーンでは答えに到着した彼が映し出されている。
答えは出せていないがそれに向かって模索していると言うメタファーのようにもとれた。
(個人的に好きだったシーン)
①ペンギンとのカーチェイスシーン マッスルカー風のバットモービルがまるで地獄からの使者のように、そしてまるで怒号のようなエンジンを鳴らし走り出すシーンは密かにブルースの狂気の内面を映し出しているかのようで興味深く、シンプルにかっこいいシーンだった。
②アルフレッドとの会話 父親の不在を認識しながらも自分自身はどう足掻いても父親にはなれないと言う諦念をブルースに告白するシーンはアンディ・サーキスの演技にも脱帽したがとても切なく悲しいシーンだった。