「あらすじ・ネタバレ・解説」THE BATMAN ザ・バットマン あふれイど-f(unction)さんの映画レビュー(感想・評価)
あらすじ・ネタバレ・解説
【あらすじ】ゴッサム市長、警察本部長、地方検事など、街の有力者が次々と殺害される。
彼らはいずれも、麻薬王マローニの検挙という偉業に携わった功績者だった。
犯行声明を発表した謎の男「リドラー」はバットマンを名指しし、街の権力者たちの「仮面」を暴くよう指示する。
警察や世論からの強い風当たりを受けながらも、ゴードン警部補や謎の女セリーナ(キャットウーマン)と協力。ペンギンやファルコーネらの悪人と対峙する。
だがやがてたどり着く真実は、バットマンの存在意義すらも揺るがすものだった。
大切な存在を失いかけながら、ゴッサム市を壊滅の危機から救うバットマン。
それは彼が、復讐心からではなく、崇高な善意から行動した瞬間だった。
経済格差、腐敗と汚職に満ちたこの街は変化するのだろうかー。
【ネタバレ】ゴッサム市に蔓延し、人々の心身を蝕む麻薬。
その生産・売買を取り仕切っていたマフィアのマローニを検挙した功績は、ゴッサム市長・警察本部長・地方検事らの連携によるものです。
しかしその情報提供者は、もう一人のマフィア王であるファルコーネでした。
ファルコーネは有力者に情報提供し、ライバルであるマロー二を蹴落とします。
そして麻薬の支配権を掌握。見返りとして麻薬収入の一部を、有力者に与えていました。
ゴッサム市の権力者はマフィアと利益を分け合うほどに腐敗していたのです。
また、マフィアが台頭する温床となったのは、バットマンことブルース・ウェインの父親が、孤児支援のため生前に設立した児童基金でした。
ブルースの父親は善良な医師でもありながら、マフィアとのつながりを持っていました。
ウェイン家の醜聞をもみ消すために、ファルコーネに仕事を依頼したこともあったのです。
ファルコーネは、ブルースの父親によって悪事を暴露されそうになったため逆に彼を暗殺。
ファルコーネこそがバットマンの復讐の標的であることが判明します。
リドラーの正体は会計士であり、街の有力者とマフィアとのつながりを帳簿から知り得ました。
彼は孤児院の出身でしたが、ブルースの父親が暗殺され、児童基金がマフィアによって食い潰されたことによってないがしろにされたことを恨んでいたのです。
(なぜバットマンの正体まで知り得たかは不明。おそらくダークナイトのように帳簿から)
両親殺害の復讐のために犯罪者をボコボコにしていたバットマンですが、自身の父親にも悪の一面があること知り、信念の根幹が揺らぎます。
ですが執事アルフレッドが傷つけられたり、セリーナ(キャットウーマン)と共に行動することによって、バットマンの行動原理は、「復讐」とは異なるものへと変化していきます。
そして何より、「人殺しはしない」というルールだけは変わりませんでした。
ファルコーニとリドラーを捕らえたバットマンは、リドラーが最後に残した防波堤破壊計画・新市長候補暗殺計画を阻止するために奔走するのでした。
「腐敗を暴く」という目的を共に達成した点で、バットマンはリドラーの計画を実行したと言えるかもしれませんが、「殺人を犯す」という一線を決して超えないことが、バットマンをリドラー達犯罪者とは異なるものにしているのでした。
【解説】「仮面を暴く」というリドラーの目的は、『ダークナイト』におけるジョーカーの役割と共通しています。
『ダークナイト』におけるジョーカーは、単にバットマンの仮面を剥がす=正体を知ろうとするだけではなく、善良な市民達が身につけている仮面、すなわち道徳・モラル・倫理観が偽物であることを示そうとしていました。市民の善良さは、打算的・利己的なものに過ぎず、極限状況においては自分の身を守るために人々は倫理観をかなぐり捨てるであろう、と。しかし劇中において市民は自らの善良さを示し、バットマンもまた、不殺の誓いが本物であることを示します。
このような「人々の仮面を暴く」というジョーカーの役割は、『ザ・バットマン』におけるリドラーの役割と類似しているのです。
ちなみにジョーカーは、嘘をつくことによって人々を誘導し、翻弄することを得意としていますが、「嘘つきでありながら真実を暴こうとする」という倒錯性が特徴的です。
バットマンもまた、「仮面を身につけた姿こそが本性であり、素顔こそ仮の姿」という倒錯性を『バットマン・ビギンズ』において完成させており、ジョーカーとバットマンは「倒錯性」という共通点を有していることがわかります。
ジョーカーが数多くの嘘をつくことにより、『ダークナイト』という物語は「嘘→真実の暴露」の連続によって構成された作品となっており、疾走感のあるエンタメ作品としても仕上げられています。
『ダークナイト』において描かれたジョーカーの倒錯性は、『ジョーカー』においてより明確に描かれており、彼は人生のどん底へと突き進むほどに浮揚していくのです。
他にも、バットマンに対する世論の風当たりが強い点、警察が必ずしもバットマンの味方とは限らない点、汚職警官が多い点、政治家・司法官が汚職によって腐敗している点、有力者が標的となる点、悪役がメディアを利用して劇場型犯罪をおこない市民を焚きつける点、会計士(経理士)がバットマンの正体を見抜く点など、多くの点で『ダークナイト』(3部作)との類似点が見られます。
ナイトクラブでの格闘シーンや、武装した集団との戦闘シーンなども、『ダークナイト』を想起させやすいものとなっていました。
ラストシーンでバイクに乗って哀愁を漂わせる点でも似ていますね。
結果として『ダークナイト』の影響力、普遍的なよさが確認されました。
貧富の格差に強く注目した点は、『ジョーカー』から継承されています。
格差の原因としてバットマン=ブルース・ウェインあるいはウェイン家の責任を強く追及した点においては、『ザ・バットマン』は『ダークナイト』を超えると言えるでしょう。
『ダークナイト』3部作においても、ブルースという有数の資産家が経済格差の解消にとりかからないのか、と匂わせる場面はありました。ノーラン監督としても、ゴッサム市における経済格差を背景とした犯罪率の増加を描く以上、大金持ちであるブルース、あるいはウェイン社の責任を理解していたでしょう。しかしあくまで、ウェイン家やブルース個人の責任を明確に描くことはせず、単に「経済格差」と(を)表現するに留めていました。
そのような状況を変えたのが、生活困窮者の側からゴッサム市を描いた『ジョーカー』であり、『ザ・バットマン』はバットマン自身が、ウェイン家あるいは自身の責任を突きつけられている様を描いたものと言えるでしょう。
また、『ダークナイト』とは異なり、両親の死にも自業自得の側面が多少あり、ブルースは複雑な感情を抱かざるを得なくなっています。
それゆえに『ザ・バットマン』においては、ブルース個人の抱える痛み、疲労、傷つきが深みを増していると言えます。
事件の真相を追及するにつれてブルース個人の苦悩も深く掘り下げられていく様は、3時間という時間をかけて説明するだけの価値があり、アクションシーンのリアリティと合わせて、視覚的な楽しさ・物語的な楽しさを満遍なく網羅した作品に仕上がっています。