三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実のレビュー・感想・評価
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ノンフィクションだからこそ印象に残る、「役者っぷり」が面白い。
○作品全体
ノンフィクションのドキュメンタリー作品は、「実際に起ったこと」に編集を加えたものであるということを理解しなければいけない…というのはいろんなところで目にするけれど、この作品も同様だ。ただ、その編集のストーリーテーリングの巧みさが光る作品だった。
タイトルでは「vs」という言葉が付いていて、作中でも「右翼vs左翼」、「保守vs革新」といった言葉が出てくるし、序盤は対立構造に注視している。しかし最終的に「あいまいで卑猥な日本国(作中の芥談)」を批判する「三島由紀夫と東大全共闘」という構図が浮き彫りになり、実は考えている部分は近いものであった…というような落とし所にしているのが、巧い。全共闘側からの共闘の誘いに「甘美的だけれども拒否します」という三島由紀夫のユーモアある回答でオチを付ける、というのもドラマ的でとてもおもしろかった。
本作タイトルは同じ題材を取り扱った書籍等を参考にしているのだろうけど、「vs」とタイトルにつけて実際はそんなに「vs」してないみたいなことは映画の文脈だと「あるあるネタ」の一つになりかけてる(それが良いとは思わないけど)。この作品もそれに近いけれども、だからこそフィクションっぽいドラマティックさがあるのが面白い。それでいて映される映像は当時の、ノンフィクションの映像。この二面性が、また良い。
映像の大半は壇上を映すのみだけれど、絵的な面白さが随所に入ってくるのも印象的。当然のように壇上で聴講する芥が急に話に割って入るのも相当な意外性があったし、野次を飛ばして壇上に上がってくる学生のシーンでは急に色収差が乱れた画面になるのも、間違いなく偶然なんだろうけど、妙に演出チックだ。
シーンごとで全共闘側の論客が変わるのも三島由紀夫が切った張ったで戦っているように見えてくる。
そんなさなかで平野啓一郎らの解説が緊張の緩和を作ってくれていたり、映像演出的な緩急に富んだ「映画」だったと思う。
映画通からしてみれば当然なのだろうけど、ノンフィクションドキュメンタリーは必ずしも演出が加わっていないわけではない…ということをすごく肯定的な意味で体感させてくれる作品だった。
○その他
・三島由紀夫の役者っぷりに痺れた。カメラを意識したポージングだったり、タバコを吸うときの表情、言葉を交わすときの余裕綽々な雰囲気と、その雰囲気を「作ってる」と言ってしまう親しみやすさ。三島由紀夫から感じる寛容さがなければ、ラストシーンの全共闘側からのラブコールも説得力がなくなってしまうわけだから、やはり役者っぷり、と言わざるを得ない。
・芥正彦のめんどくさい感じが素晴らしくて、助演男優賞をあげたい。当時、三島由紀夫にタバコを分けたけれど芥側が一本多くなってしまったことに対して、70歳を過ぎた芥が「タバコ返せてないな」と言うくだりとか、めちゃくちゃかっこいい台詞回し(と、あえて書く)だった。三島由紀夫に「敬意を払う」とか言いかけてしまうところも、敵対しているけれどリスペクトはある敵役っぽくて最高。芥正彦と三島由紀夫だけフォーカスすると、とてもノンフィクションとは思えない。両者ともにまさしく「千両役者」って感じだった。
すごい人間
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学生運動が盛んな時期に行われた東大全共闘1000人と三島の討論会。
当時を知る人達の談話を交えながらのドキュメンタリー。
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三島由紀夫って顔さえもあんまり知らん状態やった。
でも色んなことに興味を持とうと思ってるので、劇場で見てみた。
いやーこの人物、すごいの一言。
襲撃される恐れさえある中での討論会、腹が座ってる。
もっと怖い感じの人なのかと思ってたら物腰が柔らかく、
とにかく血気盛んで自己主張の塊みたいな学生の話もよく聴く。
そのうえで自分の意見を主張する、とにかく敬意に満ちている。
映画の中でも誰かが評してたが、言い負かそうとなんて一度もしてない。
同じ革命思想を持つ人種として、学生たちを説得しようとしてる。
そういう嘘のない発言は、違う考え方の人達にも受け入れられるのだろう、
時には拍手、時には笑いが起き、学生たちに受け入れられたようだった。
こういう生き方って格好いいな、って思ったわ。
ただ討論のテーマは少々難しい。ついて行けないことも多かった。
時代背景を知らないからというのもあるだろうが、深すぎるからだろう。
でもそんなのどうでもいい、大まかな歴史と雰囲気を知るだけで十分感銘を受ける。
タイトルが大袈裟かなぁ
本は読む方だが、どうも三島、太宰、芥川には触手が伸びず、たまに読んで見ようかと思うが数ページで挫折。三島由紀夫と言うと切腹と男色のイメージだけ。なんか気難しく、人の話をまともに聞かない人間と言う先入観があったが、学生らと対話する時の彼は時には有能なMCの様。深夜の討論番組で気にくわないと「黙れ!」と遮る某老司会者とは随分違うなぁw
ただ、タイトルはやはり大袈裟。と言うのも、「VS」と付ける激しい討論ではなく、頭良すぎて、自己満足の屁理屈を語る学生を三島由紀夫がいなしてる様にしか見えない。あれ、言っている本人以外の学生は理解出来てるのかなぁ。
村上春樹のノルウェイの森でも学生運動(舞台のモデルは早稲田)の様子が少し書かれていて、教授を追い出して演説を始めた学生らが、就職活動の時期になると慌てて単位を取りに必死になり、主人公が「運動はどうなった?」と聞いても返事はない。
東大の彼らはどうだったんだろう。一部は暴走したままになったが、世間は何も変わる事無く、彼らは祭りを楽しんだ後、就職活動を始めたんだろうか。
三島由紀夫の天皇論、闘っている相手は同一とする東大全共闘運動への共感は刺激的
豊島圭介 監督による2020年製作(108分)の日本映画。配給:ギャガ。
全共闘活動も良く知らず、三島由紀夫も文学作品は幾つか読んでいるものの、政治的なスタンスは狂信的右翼のイメージしかなく、諧謔的なユーモアを交えながら学生たちに哲学的考えを語る三島の姿は、実に新鮮であった。
三島が語る天皇、日本人を日本人たらしめている古代からの思想、その象徴的な概念として天皇が有るとのインテリ的な想いは、自分にも理解できるところがあり、少々驚いた。別の世界の人間と思ってきたが、三島由紀夫のことを、もう少し詳しく知りたいとは思った。加えて、左右の違いはあれど、闘う相手は同じ変化を望まない体制維持派(国益を損ねている)との三島の認識は、現時点においても一層顕著にも思え、考えさせられるものがあった。
赤ん坊を担ぎながら討論した東大全学連の論客芥正彦も、随分と浮世離れしていたが、その後も筋金入りの変革的劇作家として活動を継続してきているらしく、かなり関心を抱いた。あの赤ちゃんは娘さんで、妻は東大美学科卒であの時仕事中だったとか。その後、中島葵が内縁の妻となり、今も現役の劇作家や表現者であるらしい、なかなか凄い。ただ、若者らしい活動継続に意味が無いとの主張も理解はできたが、自分的には継続に意味大と唱える大人の三島の考え方の方に軍配を挙げたいとは思った。
監督豊島圭介、企画プロデュース平野隆、プロデューサー竹内明、 刀根鉄太、共同プロデューサー大澤祐樹、 星野秀樹 、岡田有正、撮影月永雄太、録音小川武、編集村上雅樹、音楽遠藤浩二、音楽プロデューサー溝口大悟、ナレーション東出昌大、助監督副島正寛、アシスタントプロデューサー吉原裕幸、 諸井雄一、韮澤享峻、企画協力小島英人、題字赤松陽構造。
出演
芥正彦、木村修、橋爪大三郎、篠原裕、宮澤章友、原昭弘、椎根和、清水寛、小川邦雄、平野啓一郎、内田樹、小熊英二、瀬戸内寂聴。
この時代の熱量を感じる
三島由紀夫の熱、学生達の熱。思想と主張。
個人的にはこの時代の人達の己は正しいっていうところ、理屈っぽいところが好かない。他を認めず己を突き通す感じ。
三島由紀夫のようにそれを己の命までかけて突き通されると何も言えないが。
熱く狂った時代。
芥氏は『全共闘は失敗しましたか?』と言う問いに『全共闘は自殺しなかった。』と嫌味を込めて言う。
『豊饒の海』と『金閣寺』を読んで、感動したので、この映画を見た。色々な三島研究はされているが、大体は『天才』とか『ナルシスト』とかと語られる。それを否定するつもりはないが、『ペシミストな性格』が第一義だと主張したい。また、理論武装しているが、難解な表現に換えているだけで、自分の考え(イデオロギー)に自信がなかったのではと感じる。それは、豊饒の海(遺作)が大長編な事と、それを書き上げた日に自決した事で強く感じる。映画の中でも、芥氏に完全にやり込められている。そして、肝心な事は、やり込められている自分に酔いしれているように見えた。だから、三島は、どうなるか分かって、この場に乗り込んだのだ。『豊饒の海』の最後もそんな感じを匂わせている。
『一つしかない時間を持ってくる者が一番危険。歴史だけでなく、権力という時間。』芥さんの言葉だけが、イデオロギー的には共感できる。
そして、芥氏は『全共闘は失敗しましたか?』と言う問いに『全共闘は自殺しなかった。』と嫌味を込めて言う。自分達が生きている限り、全共闘は死んでいないと言っているのだろう。
さて、『PLAN75』はこの世代を、『社会にとって邪魔だから消せ』と言っている。つまり、こう言った『歴史』を葬れ!と言うのと同じだと理解されたし。
既成概念に囚われずに、新しい物を作り出す事には賛成だが、方法論として、暴力は排除すべきだと思う。だから、金閣寺を燃やしてしまった事はやはり犯罪に当たると思う。それを題材にして書いた『金閣寺』の主題は美を破壊する事だと思う。それでは、三島由紀夫は何を破壊するつもりだったのか?彼は『新しく建てられた金閣寺』を破壊しようとしたのではと、僕は思った。その金閣の優美なきらめきを彼は醜く感じて、それをこの世から葬りたいと思った。そして、その金閣寺を炎上させて、一緒に自決するつもりだった。しかしはたと考え直し、そんな事しなくとも、自分が自決すれば、『日本の美しい宝』が消えてなくなると考えたのではないか。つまり、自決しても犯罪者にはなりたくなかった。
さて、
文学賞が取れなかった事に対してのヒガミはあったと思う。その復讐を、自分の身を炎上させて、とげることが出来た。芥氏の言うように『大願成就』だったのだろう。三島由紀夫は高みから『俺の本当の良さが分からないから、消えてなくなってやる、文学賞は俺以外取れまい』って言っている。小さい事だが、ナルシストの三島なら考えそうな事である。以上 全く僕の考えである。
三島由紀夫・・・生まれてくるのが早かったのか?遅かったのか?
今から52年前にこんな巨人(近代ゴリラ?)が生きていた。
天才小説家and天皇崇拝and右翼思想家
この映画はそんな三島由紀夫の素顔がありありと見える貴重な映画です。
2020年(日本)監督・豊島圭介・108分
1969年5月13日に東京大学駒場キャンパスの900番教室で行われた
作家・三島由紀夫と東大全共闘1000人との2時間半の伝説の討論会のドキュメンタリー。
三島由紀夫の1年半後の市ヶ谷クーデターにも触れ、
当時の全共闘の闘志の現在や、現代の識者(平野啓一郎他)の解説、フィルムを撮影して保管したTBCなどの証言も聞ける貴重な映画です。
だいたいに学生運動とはなんぞや。
ともかく若者たちが元気活発だった。
何千人ものデモ。
警察に火炎瓶や角材を持って立ち向かう。
その勇敢だったこと。
(就職に不利・・・とか、せっかく東大まで受かった息子の、この姿・・・親が泣く・・・)
そんな忖度は若者に無かった。
世を正すこと!!
官憲に立ち向かうこと!!
秩序を乱すこと!!
今の大人しい若者が見たら聞いたら、あまりの違いに腰を抜かすに違いない。
当時既に三島由紀夫はノーベル賞も狙える大作家で、プライベートで民兵組織「楯の会」を
主催する武闘派でもあった。
そんな三島由紀夫が単身、東大駒場キャンパスで1000人の東大生と堂々と渡り合う
大討論会だ。
会のポスターには三島の似顔絵の下に「近代ゴリラ」の文字。
そして飼育料100円と会費のことを書いている。
三島は終始冷静にしてにこやか。
相手の話を決してさえぎらずに最後まで聞く態度は素晴らしい。
東大の論客は芥という名の闘志が、女の赤ん坊を背負って登壇していた。
小難しい話をする男で、私には殆ど意味不明だった。
彼の抽象論に業を煮やした学生の一人が、
「今日は三島由紀夫をぶん殴る会だと聞きて来たんだ」と登壇するが、
これもことなきを終え、三島由紀夫が論破され顔色を失うシーンは、
残念ながらなかった。
「君らが一言、天皇と言えば、喜んで手を繋ぐのに・・」
と、ラブコールをしたり、ポロリと、
「革命で人を殺して、お巡りさんに追いかけられたら、その時は自害する」
などの意味深発言もあった。
1969年前後は「世界革命の年」だった。
ベトナム戦争
フランスの5月革命
プラハの春の終焉
歴史との距離感が今とは違うのだ。
他人事ではなくて、自分ごと。
世界の歴史を肌で感じるそんな時代だった
ガチで討論する三島由紀夫と東大全共闘。
そんな熱かった時代が懐かしい。
「学生運動」で日本は変わったか?
少なくとも学生運動活動家の意思は様々な業種に浸透して変容して根付いている。
そんな圧倒的な熱量だった。
過去鑑賞
確かに「熱い」
三島由紀夫と東大全共闘との戦い。
僕が、10歳の時に、三島が自殺したと
なんか怖い!くらいでした。小説も、潮騒、午後の帰航とか知らない。話は、壮絶なをイメージしたが、議論を繰り返し、学生もさすが、知性ある東大生らしく、三島と語り合う。赤ちゃんまで登場するなどユーモアもある。途中、野次もあり「出てこい」と言われると出てきて意見を言う。今の匿名スタイルとは違う。
しかし、昔だな、タバコ吸い好き!
知性を伴う言葉
実に見応えのある討論であった。
正直、☆など付けれない。
ただ、終幕において制作者が用意した言葉には、価値観が反映されるので納得しなくてもいいと思う。
ドキュメンタリーとしては、大きなお世話と思えてしまう。
現代においての討論が、いかに稚拙であり、知識はあっても知性の欠片もなく、討論ですらないと思えた。
作中、芥氏が「言葉が力を持っていた最後の時代」と述べている。正にそうであったのだろうと思える。
右と左。
正直、よく理解はしていない。
情報としては相反し敵対しているって事くらいだ。
双方の思想が真逆の立場。
相対したら戦争にしかならない状態なのだと思う。
だが、どうだ?
小難しい単語や聞いた事もない単語が飛び交うにも関わらず、双方の主張は驚く程理解できる。
革命を目指した者と、改革を目指した者、なのだろうか。根源は同じで、やり方が違う。
どちらも「今のままではダメ」なのだ。
そんな風に思える。
作中、三島氏に煙草に火をつけてやる芥氏が印象的だった。
ぶん殴ると壇上に上がってきた人物と三島氏の間に立ち塞がってるように見える芥氏が印象的だった。
赤子を連れてきた芥氏、あれは一つの緩衝材としての役割を担わせる為の意図だったのだろうか?
だとするなら、彼はとても聡明な方だと思う。敵陣に単身乗り込んでくる三島氏に、議論の場を提供する為に「赤ちゃん」というツールを用い、場を整えたのだから。正々堂々、迎え撃つ気構えに一切の澱み無しなのだ。
敵意しかない発言に、一切憤る事もなく、場合によっては笑みすら浮かべ、淀む事なく喋る三島氏が印象的だった。それは嘲笑や苦笑ではなく、心底楽しんでるように見えた。今後の日本を担う若者達と、時流の先鋒に立ち議論している栄誉を実感してたのだろうか。
「暴力を否定した事などないと」三島氏は言う。
なぜならば、どういう状態であるにせよ、他者を自己の思うように変革してしまう事は「暴力」と呼ばれるものなのだからと。それ程に根深く広義なのだと聞こえてきていて、それは肉体的な痛覚に訴えるものだけを指す単語ではないと。だから否定など出来るわけがないと。
一般的にイメージする「暴力」と三島氏の「暴力」とは本質的に違うのだ。
しかも、コミュニケーションにおいて、相手を他者として認めるからこそ起こる行動なのだ、と。
勿論、そこには一方向のベクトルだけがあるわけではなく、双方向のベクトルが生じてこそなのだけれど。
だから、彼は、いや、彼らは、議論を交わす相手と認め合い、言葉を交わす。言葉を用い殴り合う。
自らと同じ目線、同じ人間。
生きている人格として相対する。
お互い認め合うからこそ討論も成立するのだ、と。
第三者からの意見として平野氏は「言葉は不可欠なんだ」と説いていた。
解放区の話であったのだけれど、いわゆる個人の内的な思想がどれ程有用で有益であったとしても、言葉によって伝播しなければ認知も共感もされないって事なのだろうか。
芥氏は解放区の事を「原初の形」と言ってたように思う。事物に囚われず人が人として解放される空間であるというような事だったと思う。
その解放区を広げる事が、闘争の目的とは言ってはいなかったように思うけど、目標なり指標ではあったのだろうと思う。その空間は持続しなくても良いのか?と三島氏は問う。
三島氏は三島氏で、その解放されたと意味づけされている空間ではなく、その精神性には同意しているようでもあった。
なにせ、現代とは全く異なる国に思える。
現代は、社会的に平和な状態ではあるのだろう。
だが、それが個人的な平穏に直結してるようには思えない現代ではある。
政治は国民の手を離れてる。
選挙や民主主義など、絵に描いた餅のようだ。
国家の暴力によって、支配されてるのだと思う。
個人は無力で組織は強力だ。
ヒエラルキーは大手を振って君臨している。
多数決の論理に迎合するのは簡単で安全だ。
思考を止めればいい。
そんな事の積み重ねが「無気力」を産むのだろう。
何もやらない内から「何をやっても変わらない」と諦める。誰かの闘争を自分に転嫁する。
権力と体制に押し潰されて、いや、隷属しているのが今の日本人なのだろう。
それでも、表面的には平和だ。
思想…この場合は自身の主張を訴える言葉は無力でも。いや、それこそ主張なんて主張はそもそも無くて、だからこそ言葉に力を込められないのかもしれない。
表層的な美辞麗句に終始する。
「コロナ終息」を掲げる選挙ポスター。
随分と国民はバカにされてるのだなぁと思う。
そんな戯言で釣れると思われてるのだろうな。
敗北を総括するにあたり「敗北が運命であったして、その敗北を経てどう変化していくのか、その先を生きてこそ、それが敗北であったかどうかを総括すべき」というような言葉があった。
ニュアンスは違うのかもしれないけれど。
耳に残り、心に響く。
一応の結末は、真のエンディングではないのだ。
知性を伴う言葉に力があった時代。
おそらく今は理不尽な暴力が蔓延し、それを暴力と思えないように洗脳されてる状態なのだろうと思う。
言葉を交わす。
その単純にして絶大な影響力を忘れてはならない。
「言霊」なんて表現が妥当かどうかはわからないが、投げかける言葉、投げかけられた言葉は共有も共鳴もする事は確かだと思う。
事実、僕らは親やメディアを含む他者から投げかけられた言葉により人格を形成し今に至るのだから。
三島由紀夫の優しさは伝わりました
天才作家がこれほどまでに誠実で優しい人物だとは思わなかった。
しかしながら、ただただ芥というプライドが肥大した高慢ちきな人物が不愉快すぎる。
70過ぎた老人になっても、ただの芸術家気取りの偏屈な人物。
この人物が無駄すぎて、低評価。
右と左の二元論で語れるほどに、人の思想は単純なものではないのだ
私は、本作に描かれているような学生運動については聞きかじった程度の知識しかない平成生まれの若造であり、三島由紀夫という男については自衛隊施設を占拠したのちに切腹してこの世を去った文豪であるという程度の知識しかない人間であります。
そんなほとんど無知な私が本作を観た感想としては、「興味深かった」です。
内容が内容だけに「面白かったか?」と問われれば微妙なところですが、少なくとも「興味深く」最後まで飽きずに観ることができました。
冒頭の過激な左派学生運動の描写の後に、右派の三島由紀夫が東京大学にて討論を行う流れになったことで「大丈夫か?殺されるんじゃないか?」と心配になります。しかしながら実際に討論が開始されてみれば意外や意外、三島の発言に会場から笑いが起こったり学生の発言で三島が笑ったり、三島のタバコに学生が火をつけてあげるようなシーンもあって、当初感じていた危機感は次第に薄れていきました。
難しい単語は字幕で注釈が入ったり、当時実際に現場に居合わせた人たちへのインタビュー映像を途中で挟み込むことで、当時の学生運動について知識が乏しい私のような人間にもある程度は理解できる構成にしてくれたのも、本当にありがたかったですね。
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1969年5月に東京大学駒場キャンパス900番教室で行われた作家三島由紀夫と東大全共闘との討論会を当時の実際の映像や参加者へのインタビューを通じて映し出し、三島由紀夫という男の生きざまを描いたドキュメンタリー。「伝説の討論会」とも呼ばれる討論を現在に蘇らせる。
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個人的に本作で感動したのは「学生運動に参加した学生のその後」を描いているところですね。
当時の学生運動について色々調べたことはありますが、例えば連合赤軍のあさま山荘事件とか2002年に逮捕された重信房子みたいな「一線を越えてしまった過激派のその後」みたいなのは結構見掛けるんですけど「学生運動の一般参加者」に関してはその後の情報があまり見掛けない気がします。もちろんしっかり探せばあるんでしょうけど、センセーショナルに描かれるような話題ではない印象です。しかし本作では三島由紀夫との討論を主催した東大全共闘のメンバーがインタビューに参加しています。全共闘が「敗北」した後にどう考え、どう生きたかをしっかり描いているんですよね。三島由紀夫が主役として扱われている映画でこう言うのも変ですけど、全共闘のメンバーたちも、本作においては紛れもなく主役であったように感じます。
また、本編で描かれている討論の様子にも感動しました。
「右と左」というと対極的な存在で対立していると思われがちですが、冒頭の三島由紀夫の「諸君の熱情は信じます」という言葉で、お互いに認めるところは認めているのだと感じられますし、討論しているうちにお互いに共通認識があることもわかってきたりして、ただただ「論破してやろう」「打ち負かしてやろう」という攻撃的な討論ではなく、実に建設的で愛に溢れた討論であったと感じます。
また、三島の発言の端々から「文学の人間」って感じの美しい表現が飛び出してくるのも感動しました。相手の言葉を受けて意見を返すのが討論ですので、あの場の発言はほとんどが即興で出てきた言葉だと思うんですけど、まるで小説を読んでいるかのような詩的な表現が三島の口から出てくるんですよ。思わず「うわぁすげぇ」と声を出すほどに感心させられました。言葉を使って人の心を動かし続けてきた三島由紀夫という人物の凄さを見せつけられるような場面でした。
平成生まれの自分から見るとまるで異世界のようですが、これが日本に実際に起こった出来事であり、当時の若者たちが自らの青春を投げうって行った「革命」なんですよね。本当に興味深い映画でした。オススメです!!
熱量と敬意と言葉と…
凄まじい熱量、言葉の応酬、そして三島は学生にきちんと一言一言、敬意を払っている。敵対する千人を前に、向き合い、決して馬鹿にせず、ユーモアを交えながら、認めるものは認めながらも、意見を戦わせる。はっきり言って哲学的、レベルが高過ぎてついていけないが。現代を見たら、三島は何を語るだろう。
すばらしい記録
大変勉強になった。昔聞いた話の忘れてたことやわからなかったことが少し埋まった感じ。レスペクトということをなにより感じた。学生側はみんな目が輝き、まじめに何か吸収しようという意気込み感じる、三島由紀夫は非常に真摯誠実自分より若い学生自分とは違う思想、前提の若者たちを尊重し楽しみユーモアたっぷりに巧みに話す。三島のユーモアにどっとウケる会場、同じ場を共有し敵味方なく好きなことを言い批判され批判し笑い殴る殴れと挑発あっでも殴らないよ。民青に牛耳らレテいた駒場キャンパスここの建物、教室でのこの時間は、物資的にも精神的にもまさに解放区であったかのよう。解放区において、カメラもあり、東大全共闘の特に壇上の面々はそれなりにおしゃれしてカッコよく写ろうとしていたのかな。学生の時から前歯かけていた小阪修平氏の天皇というキーワード切り出し取り込みよかった。小阪氏もう他界されていたとは(四方田犬彦氏のFacebook記事で知る、、ちなみにこの記事がとてもよい、映画の理解を助ける)平野啓一郎氏の冷静な三島分析も世代の狭間の自分にとってわかりやすく助毛になる洞察。三島文学は訳もわからず中学生のとき魅了された、このような存在は右も左もない。今、世界に、日本に、広い地平を見える事象はあまりに利己的であまりに狭量だ。
本年最後のレビューは、劇場で観たのになかなか纏まらずレビューがまだ...
本年最後のレビューは、劇場で観たのになかなか纏まらずレビューがまだだったこの作品。
特別、三島由紀夫さんに思い入れがあるわけでもないですし、僕みたいな無知な人間に理解出来るか不安に思いながら観に行ってきました。
結果…滅茶苦茶良かったです。
三島由紀夫さんと芥さんの対話など100%理解出来たとはとても言えませんが、その熱量、彼等の主義主張がその一部でも知れたのは自分にとって大変為になったと思います。
僕も学生運動を直に知っているわけではありませんし、予備知識もあまり無い状態での鑑賞でしたが、解説が入るので分かり易く、半世紀前の日本の姿、日本での左派もその発生した動機も反アメリカ=愛国が根底にあった事に今更ながら気付けたのは大きな収穫でしたし、当時学生運動に励まれていた方々のその後がほんの少しではありますが知る事が出来、長年の疑問が氷解した感じです。
三島由紀夫さんの“天皇”という考え方には大いに賛同出来ますし、三島由紀夫さんのカリスマ性、器の大きさ…きっと僕も身近にいたら、感化されていた事は間違いないくらい魅力的な方ですね。これは是非、自分よりももっと若い世代、10代や20代の方に観て欲しい作品です。
三島由紀夫さんが現在も存命でしたら、今の日本を見てどう思ったでしょうね?
三島由紀夫さんが全共闘を説得しようとしていたのは、右や左といった一見正反する主義ですが、そこには共通の敵がいる事が分かっていたからだと思います。
そして実はその敵は今も存在していて、その闘いはまだ終わっておらず、未だ続いているんですね。
(過激派の事ではないですよ)
三島由紀夫さんもとても魅力的でしたが、芥正彦さんも興味深い方ですね。
20歳を幾つか過ぎたくらいで三島由紀夫さんと渡り合える辺りからも頭の良さは分かりますが、70歳を過ぎた今でもギラついた刃のような感じの方ですよね。
学生運動について(敗北に終わったのでは?)のインタビューでは“自分がまだ存在している”との主旨の答えをなされていましたが、主義主張は違いますが、パンクの“Punks Not Dead”に通ずるものがあるように思いました。
まだ終わったわけじゃないという芥さんの気概、凄いですよね。
また、三島由紀夫さんが自決なされた事についてのインタビューでは“良かったじゃないか、彼も本望だろう”というような答えをされていて、一瞬、カチンときたのですが、よくよく考えてみたら、決して三島由紀夫さんの死を嘲笑ったりしているわけではなく、真実を語っていただけなのではないかと思います。
三島由紀夫さんは第二次世界大戦を生き残ってしまった事に負い目を感じているような節があったみたいですし、いつか日本のために命を捧げたかったのではないかと、そして自分の中にある美学に則ったのではないかと、そんなふうに僕には思えました。
ですから、芥さんは“本望ではないか”という意味で、あのように答えらっしゃったのではないでしょうか?
三島由紀夫さんと芥さんの決定的な違いは、三島由紀夫さんが本気で全共闘を説得しようとしており、きちんと意見を聞き、相手を尊重したいたのに対し、芥さんは最初から相手に分かってもらうつもりがなかった事、そして言葉で捻じ伏せようとしていた点のような気がします。
議論を途中で投げ出してしまった点も印象として悪く、あれでは逃げたのと変わらないように見えてしまいますよね。
まだ、書き足りないような気がしますが、これ以上書いても纏まらなさそうなので、このくらいにしておきます。
取り留めのないレビューになってしまい、すみません。
最後にご挨拶を。
皆様、今年一年大変お世話になりました。
皆様のお蔭で、今年もまた素敵な映画に出会える事が出来ました。
自分も含め、多くの方がコロナに振り回された一年だったかと思います。
新作映画の公開が延期されたり、映画に携わる方々には厳しい一年になってしまわれたかと思いますが、そのお蔭で多くの方が映画を愛している事を改めて実感出来たような気がします。
個人的な事ですが、元々本業の仕事が減っているところに加えて、このコロナの影響で仕事が更に激減。
加えて、自分のバイト先のお店に、市街地から通じる道路が1年五ヶ月に渡って終日通行止めになるため、バイト先のお店が閉店の危機に瀕していますし(どう考えても踏切工事で接する道路が1年5ヶ月も終日通行止めっておかしくないですか?)全く先行きが見えない状態に陥っています。
来年、どうなるのか全く分かりませんが、また皆様のレビューを拝読させて頂き、より多くの映画を鑑賞出来る一年になれば良いなと思っています。
今年は暗いニュースが多かったような気がしますが、来年は皆が笑顔で過ごせる年になる事を願っております。
それでは皆様、良いお年をお迎え下さい。
言葉の力
1969年、東大安田講堂事件と同年、革命への期待と騒乱に満ちた「政治の季節」、三島由紀夫は東大全共闘に招かれ公開討論会をおこなった。
その記録映像が、なんとTBSに残されていた。
本作は、討論会のようすと、当時、その場にいた人を中心に証言を集めて編集したドキュメンタリー映画である。
この映画は、こんなナレーションで幕を閉じる。
「あの日、この900番教室に満ちていたのは、三島由紀夫と千人の東大全共闘の『熱と敬意と言葉』だった」
意外にも討論は、言葉の応酬は激しいものの、全体に落ち着いていて、ときに笑いもあった。この雰囲気を作った三島の包容力とユーモアに、ちょっと驚いた。
三島は決して学生を見下すことはなく、真摯に耳を傾け、そして言葉を紡いだ。
三島は最後、東大生たちにこう言って会場を去る。
「言葉は言葉を呼んで、翼をもってこの部屋の中を飛び回ったんです。この言霊がどっかにどんなふうに残るか知りませんが、私がその言葉を、言霊をとにかくここに残して私は去っていきます」
「そして私は諸君の熱情は信じます。これだけは信じます。ほかのものは一切信じないとしても、これだけは信じるということはわかっていただきたい」
この日、三島に討論を挑んだ学生、「東大全共闘きっての論客」と言われる芥氏は、この討論を振り返って、こう語る。
「言葉が力があった時代の最後だと思う」
梨木香歩の近著「ほんとうのリーダーのみつけかた」にこんな一文があったのを思い出した。
「今の政権の大きな罪の一つは、こうやって、日本語の言葉の力を繰り返し、繰り返し、削いできたことだと思っています。それが知らないうちに、国全体の『大地の力のようなもの』まで削いできた。母語の力が急速に失われてきた。この『大地の力のようなもの』こそ、ほんとうのその国固有の『底力』だと思うのです」
三島と全共闘、単純には「ザ・右翼」と「ザ・左翼」という構図に見えるが、実際には通じる部分が多い。
前述の芥氏は、双方にとっての共通の、そして本当の敵は、「あいまいで猥褻な日本国だ」と言い切った。立場は違えど、どちらも日本を社会を、よりよくしたいと願っていたのだ。
三島の事実上の遺書と言われる小文「果たし得ていない約束」にある、彼の予言めいた言葉。
「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら『日本』はなくなつてしまうのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである。」
三島と全共闘の、この討論会が開かれたのは50年以上も前のこと。
しかし、いま、僕たちが生きるこの国、この社会のことを考えさせられた。
厳しく優しく人間らしく 令和に沁みる映画
時間を忘れて、蘇ったドキュメンタリーに見いってしまいました。司会の学生が三島由紀夫先生と言ってしまったのから始まり、暴力的ではない雰囲気のなか、文化人同士での観念論(頭の中で組み立てた考え・論)が続いた。内容があまりにも深く難解。それはそれで面白かった。1000名の学生もきれいに並んで座っていて、VSという感じではなかったんだなーという印象でした。そんな討論は全共闘の恥だと言って割り込んできた学生(ある意味暴力的存在)にキタキタ~と共感したのも束の間、即刻その場から居なくなってしまい、少し残念に思う一般庶民の私。その学生を見て笑いながら三島由紀夫 大先生へタバコをうながす、同じく闘う学生の身分なのに?の芥氏。三島由紀夫も同調してしまっていたが、暴力について冒頭に"有り"かのように力説していたのに、ここでは戦わないのね、と少し残念。この彼がリアルな現実であるような気がした。この彼や仲間達も東大全共闘バリバリの言葉を持っていただろうから、こっちと討論して欲しかったです。マッチョな体を乗り出して話をしようと言葉の質を下げてでも一歩踏み出して欲しかったです。とっさにかわした現実とはかけ離れた観念討論を「愉快」だったと、あえて人間的な言葉で片付けたのは大人の見栄だったかなー。
最後の方に小説家が「一番大事なのは言葉だ」みたいなことをあっさり言っていて、えっそんなシンプルな言葉で映画締めるの?と拍子が抜けたが、熱い時代とは対称的に これが現在 言葉を生業としている方の言葉なんだなと受け取りました。現在の芥氏の、俺は間違っちゃいねーぜみたいな生き方も=熱く生きるのも楽しそうだなと思いました。人は大切に思うことが違うんだな、いずれにしても、その時その立場において真剣に向き合って深く考えること、言葉で表現することは大切なんだなと思いました。
世界と戦っていく時代を生きる我が子に「一番大事なのは 熱と敬意と言葉だ」ということは伝えたいです。
三島由紀夫の言葉の力
三島由紀夫の小説は数冊は読んだけれど、それよりも割腹自殺で最後を迎えたその生き様にずっと興味があった。今回、この映画ができて討論内容が理解できるか不安を持ちつつ鑑賞。全く問題なし。討論の合間にインタビューや解説がありその時代に何があったかわかるようになっていた。
さて、本題ですが、この討論、左翼対右翼。1000人対1人の戦いと思われたけれど、三島の紳士的かつユーモアのある言葉が全共闘のメンバーに純粋な議論を呼び覚ます。この時代の言葉が持つ力とはこれほどのものかと圧倒される。言霊と途中で三島が言うけれど、言葉は言霊となって参加している学生やこの映画を観た私達にも響いてきた。
この一年半後、有名な割腹自殺の事件がおこる。三島は市ヶ谷の基地で呼びかけるが、残念ながらその言葉は届かなかった。三島は日本最後の武士かもしれないと思った。
そして、登場人物が驚くほど魅力的だった。
インタビューに答えた当時のメンバーは、この戦いを終えて次の一歩をどう踏み出すか、考えただろう。それは三島達の世代、太平洋戦争の終わりに10代の終わりをむかえた世代が、生き残ってしまった自分の生きる意味を問い続けたこととどこか似ている気がした。
赤ん坊を抱えてきた芥さん、圧倒的なロジックを展開。三島が挑発に乗らないとみてとった瞬間、つまんないから帰ると去っていった。あの赤ちゃんは今頃何してるかな。芝居好きな私としては、芥さんの芝居、観てみたいな。
言霊の解放区
出張先で鑑賞。
討論会記録本は未読です。
片や右翼、片や左翼。主義主張が正反対の両者が、知力の限りを尽くして、真っ正面から議論する…。その熱量は、現代人に欠けている何かを問い掛けて来ているようでした。
言霊は世界を変えるのかもしれない…
センセーショナルな時節にも関わらず、暴発的な感情が入ることを許さない、徹底した理論の応酬…。暴力が介在していないにも関わらず、まさに死闘そのもののテンションで、言葉の刃を交える両者の攻防が、スリリングで堪りませんでした。
1969年、東京大学駒場キャンパス900番教室―。安田講堂が陥落した直後に開かれたこの討論会の内容を、全て理解出来た自信は無いけれど、自分の中に確固たる思想を持って、それに従って行動することの重要さと意義を思い知らされました。
三島由紀夫について―
没後50年、今も唯一無二の輝きを放つスーパースター…
読書好きとしては、世界的文豪と云う一面が、いちばん身近でした。著作は「潮騒」と「愛の渇き」、「命売ります」の3冊しか読んだことはありませんが、かなり艶かしい文章と描写で惹きつけられるものを感じていました。
それ以外だと、民兵組織・盾の会を結成して軍事訓練にいそしんだり、俳優として映画に出演したり、江戸川乱歩「黒蜥蜴」を戯曲化したり…と多彩な才能を発揮した後、陸上自衛隊方面総監を人質に立て籠って、自衛隊員たちに決起を促し、切腹して果てたことを知っていたくらいで、その人間性まではこれまで知る機会がありませんでした。
討論の最中、始めから終わりまで、真摯な姿勢で学生たちと対等に接し、ユーモアを忘れず、彼らの主張を否定せず、まるで説得するかのように語る…。なんとか言い負かしてやろうと息巻く学生たちの若さ故の勢いに微笑しながら、決して声を荒げず議論しようとしたその姿は知性に満ち、自身を明確に確立した人間そのものに見えました。
カッコいいなと思いました。憧れてしまいました…
[余談]
新型コロナウイルス感染拡大を受けて発令されていた緊急事態宣言が解除されたことで、映画館もどんどん営業を再開。これを機に、2ヶ月ぶりに映画館へ…。危機が完全に去ったわけではないけれど、体がうずいて仕方が無かったです。
映画ファンにとって、映画館と云う場所はとても大切だし、大きなスクリーンで映画を楽しめることの喜びは、やはり何ものにも替えがたいものであることを、改めて実感しました。
私が観た回は貸切状態でした。ほぼ全てがそうだと思われます。得したような気分でもあったし、なんだか寂しいような気もしたし…。日常というものの尊さを噛み締めながら、少しでも状況が好転していくことを祈るばかりですが、矛盾した行動を取ってしまっていることは、充分自覚しています…
言い訳めいたことを書いてしまいましたが、自分なりの感染対策をして、誰もいない回を狙って観たいと思います。
※修正(2022/04/08)
今世紀生まれの若い人も見てみる価値のあるドキュメンタリー映画
当方、40代のオヤジ。高校2年生の息子と観に行ったが、新型コロナ禍の影響か、我ら父子を含めて場内の観客は僅か3人。所謂「三島事件」については、文学少女(笑)だった私の母(70代。芥氏とほぼ同年齢か)から何度も聞かされていたが、私にとっては日本文学史における重大事件の一つに過ぎないし、まして私の息子は本作の冒頭から「日本で、しかも東大でこんなことがあったのか!」と衝撃の連続であった。鑑賞後、彼からブランキズムやトロツキズム等について用語解説を求められ、知っている範囲で答えてみたものの、これらの言葉は私の学生時代においてもほぼ死語であったように思われる。まして、息子らの世代にとって東西冷戦は生まれるずっと前に消滅し、社会主義や共産主義も過去の亡霊に過ぎなくなっているのであろう。しかし、リーマンショック以降の就職難に喘ぐ若者の有様からマルクスの造語「産業予備軍」が蘇り、共産主義を封じ込めるために結成されたはずのASEANでベトナム社会主義共和国が今や有力メンバーの位置を占め、中華人民共和国が我が国を差し置いて世界第2位の経済大国となってしまった。20世紀に比して随分変容したにせよ、共産主義・社会主義は滅びたどころか、資本主義陣営にとってより大きな脅威に成長したとも言えよう。若い人々も今更知って損はしない知識と考えるが、どうであろうか。
本題に戻る。強烈な印象を受けた要素を3つ挙げるとすれば、芥氏の女装パフォーマンス、全員過剰喫煙(しかも無フィルターニコチンダイレクトのショートピース。芥氏の幼い娘さん、受動喫煙しまくり)、そして三島氏のユーモアと優しさ。全共闘手製の「近代ゴリラ」ポスターの卑猥なイラストを見ても少しも怒らず、「こんな所にのこのこやって来て、全共闘の諸君にカンパすることになってしまった」と初っ端から笑いを取る。楯の会の元隊士たち(彼らが自分たちでどう呼び合っていたのか私は知らないが、彼らへの敬意を込めてこのように呼称する)の思い出話からも、「先生」がいかに気配りが細かく思いやりのある人物かが窺われ、三島由紀夫と言えば「筆を置けば頑迷な右翼で血気にはやる怖い人」という人物像しか持っていなかった私にとって甚だ新鮮であった。咥え煙草に手ずから火を貰う行為は、煙草吸いでも余程気心が知れていないとできないコミュニケーションであり、「言葉と言葉の殴り合い」という割には随分和やかな雰囲気に見えた。三島氏が最後に「諸君の熱情は理解した」と締め括り、晴れ晴れとした表情で会場を後にするシーンも、左右の方向性は違えど過激派同士通じるものがあったことを示すのか、或いは劇作家として予め設定した構成の一部だったのか、ドキュメンタリーの間の絶妙さとも相まって不思議な余韻があった。
ドキュメンタリー映画の編集は資料映像という大きな元ネタがあるからやり易い、などと思う向きがあるかもしれないが、存外難しいのではなかろうか。近年上映された「ニューヨーク公共図書館」のフレデリック・ワイズマン監督のように、海外でも巨匠級の映画人の手に成ることが多いのがドキュメンタリー映画である。インタビュー挿入のタイミングも、一歩間違えれば作品全体が冗長なものと化してしまうし、ナレーションも強い口調で感情を込めればいいというものではなさそうだ。本作が玄人目にはどう映ったのか知る由もないが、豊島監督も、ナレーターの東出昌大氏も巧みであると、私は思う。
最後に、本作鑑賞を機に息子が東大受験志望の決意を新たにした。闘う男たちのせめぎ合いを見て最高学府に入りたがるとはクレージーにも程があるが、まぁ、頑張れ。念願叶ったらサークルの勧誘もあるだろう。「君、いい体をしているな。楯の会に入らないか?」
よかった
三島由紀夫が単身、敵だらけの東大生がいる教室に乗り込んで講演をする。東大生の卑怯な感じがひどい。芥という学生が赤ん坊を抱いて三島と対峙して、セルフプロデュース感がすごいのだけど、後からご本人登場で、すっかりお爺さんの彼が未だに負け惜しみのような事を言っていて残念だ。
それにしても討論内容がどうしようもなくつまらない。どうでもいいような観念的な内容で、よく会話のキャッチボールが成立していたものだ。頭がよすぎるのも問題がある。
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