「これを正義と呼ぶことに、心が抗っている。」コリーニ事件 bloodtrailさんの映画レビュー(感想・評価)
これを正義と呼ぶことに、心が抗っている。
「死者は報復を望んでいない」
戦争犯罪を個人に問う事の是非については、法の支配に基づく社会で、正当な裁判が可能である環境下でのみ、それをすべきである。って思います。
◆フリードリヒ・エンゲル
法廷ドラマは、おそらく、2002年のフリードリヒ・エンゲルのケースを参考にしていると思われます。93歳のフリードリヒ・エンゲル被告は、イタリア・ジェノバでナチス親衛隊地区責任者を務めていた1944年、同市内でドイツ兵5人が殺害された事件の報復として、刑務所に収容中のイタリア人捕虜59人の殺害を命じたとして有罪判決を受け、懲役7年の実刑判決を受けました。
◆悪用されたドレーアー法
1968年当時のドイツは保革連立政権でした。法務大臣は革新政党SPDのグスタフ・ハイネマン。ハイネマンの狙いは、反体制の学生運動で逮捕された学生たちの救済であったとされています。1969年の政権交代のドタバタの中、連邦議会で、その中身が十分に吟味される事なく成立したのが「秩序違反法施行法」であり、それはナチス政権下で検事を務めた法律家、エドゥアルト・ ドレーアーが中心的な役割を果たして制定されたものです。以降、「上からの命令に従って」ナチ犯罪に加担した軍人・法律家(奇しくもドレーアーを含む)などが行った犯罪についての時効は、15年に短縮されたものとして「法」に拠り処理されることになります。
◆1人に対して150人。1人に対して50人。
1941年、フランスはナントでドイツ軍司令官カール・ホッツが、フランス共産党員2名により殺害される事件が起きます。激怒したヒトラーは、150名のフランス人人質・政治犯の処刑を命じます。パリのドイツ軍司令部オットー・フォン・シュテュルプナーゲル歩兵大将は内心でこれを拒絶したものと思われます。彼は「人質50人を銃殺刑に処する」、また、「指定期日までに犯人が逮捕されなかった場合にはさらに50人の人質を銃殺刑に処する」との通達を出します。1941年10月22日、三か所で合計48人の人質が銃殺されましたが、うち最年少であった17歳のギィ・モケが、処刑指名から処刑までのわずか1時間の間に書き残した手紙は有名で、映画「シャトーブリアンからの手紙」のひな形となっています。
1944年3月のイタリア。ローマ市内でナチス親衛隊を標的とした爆破事件が発生し、33名の親衛隊員が命を落とします。激怒したヒトラーは、「犠牲者一人に付き50人の人質を処刑せよ」との厳命を下します。イタリア占領軍司令官ケッセルリンクもまた、シュテュルプナーゲルと同じ行動をとりました。ベルリンに処刑者の数を10倍にするよう申し入れます。政治犯、反ナチファシスト、ユダヤ人を中心に処刑者リストを作成し、335人をローマ市南部のアルデアティーネの洞窟に集め処刑します。
この銃殺部隊の隊長であったエーリヒ・プリーブケは、ドイツ敗戦後に裁判で有罪を判決を受け終身刑になりますが脱走しアルゼンチンへ逃亡。1994年にアルゼンチン政府によって逮捕されイタリアへ身柄が引き渡されます。1998年に再び終身刑を受けますが、高齢を理由に収監されることなく、2013年に100歳で息を引き取ります。
映画では「10倍」の人々を処刑しました。現実のナチス、ヒトラーの報復指示は、150倍、50倍と言う、想像を絶するおぞましいものであり、地域の責任者ですら服従を拒むものであったと言う事実があります。
◇復讐の味は苦い
これは1945年11月、ジョージ・オーウェルが書き残した著聞のタイトル。
ユダヤ人ホロコーストの復讐を行ったサロモン・モレルはポーランドで叙勲された秘密警察の大佐。彼は、ドイツ民族主義者・政治犯を収容するズゴダ強制収容所の所長であった時代に、意図して飢餓を引き起こし、伝染病の蔓延を放置し、女子供を含む1500人の収容者を「復讐殺害」したとして告発されました。告発を受けたモレルはイスラエルで市民権を得、2007年にテルアビブで死去。イスラエル政府は、ポーランド(国法により戦争犯罪に対する時効が存在しない)からの度重なる身柄引き渡し要求を完全に無視しました。
「ナカム」(ヘブライ語で"復讐者"の意味)と名乗る50名ほどのユダヤの若者のグループは、大戦後、600万人のドイツ人を、ナチスのホロコーストの復讐ために殺害する計画を立てていました。計画は仲間割れにより実行されず頓挫しますが、「ドイツへの復讐を考えなかったものはいなかった」との証言が残されています。
ポツダム協定では、「ドイツ人住民の秩序ある移送」が合意されました。その内容は以下。 「アメリカ、イギリス、ソヴィエト連邦の政府は、諸般の情勢に鑑み、ポーランド、チェコスロヴァキア、ハンガリーに残留するドイツ人住民やその社会集団のドイツへの移送が行われねばならないことを認識する。これら政府は、全ての移送措置が秩序ある人道的な方法で行われるべきことに合意する。」 実際に、戦後開始された「ドイツ人追放」に」より、強制移送中に命を落としたドイツ民族は105万人とも210万人とも言われています。単発的な戦闘行為による死者やユダヤ人によって処刑されたドイツ兵は、その数に含まれていないとされています。
◆法が正義ならば
その法を、自らの都合の良いものにしてしまえば良い、と言う根源的な不正義。エドゥアルト・ ドレーアーは、不正義をたくらんだのか。それとも。充分過ぎるほどに復讐を受けた同胞への更なる復讐を止めようとしたのか。
「お前に何が判る」
理解はしますが、支持なんか出来ないです。
だから判りたかぁ無いです。
判ることはただ一つ。
「どこにも正義は無かった」
それだけです。
ナチスを題材にした作品として見た場合、親代わりであった恩人の過去の人道への罪に向き合う事の意味、ってのが見どころだったと思いますが、そこが意外にもアッサリと「弁護への使命感」で片づけられてるのが物足りなかったです。
大連立だったこと、ハイネマンがとてもリベラルで素晴らしかったこと、一方でドレーアーというナチス時代も大物だった法曹関係者が同じ議会にいたことが、何だか凄い。例の法律がとてもヤバいことを、可決した議員達も、東スポみたいなビルト紙の日曜版、そしてシュピーゲル誌で知って激怒したというのも凄い。マスコミ立派な時代だったんでしょうか。私は法律も歴史も専門ではないからこそ、ワクワクして読んで調べ中でごんす!ありがとう、bloodtrailさん!
bloodさん、ドイツ人追放はbloodさんのコメントで初めて知ったんです。自分、ドイツからの情報が多いので、変な言い方ですが、反省モードが普通です。だから「いやいや、私達だってこんな辛い思いしたんだよ」はなかなか見えないし、「お勉強」対象にならないんです。でも、さらに勉強続く。下手くそですが、この映画の自分のレビュー前半、原作再読して加筆修正しました。
bloodさん、ドレーアー法が気になって、色々読んでます。言えることは、原作では、主人公のカスパーはエリートの出で、祖父がナチの大物だったということです(原作者と同様です)。原作の小説は2011年にドイツで刊行され反響の大きさから、ドイツ連邦法務省が2012年に調査委員会を設置しました。1968年からその時点までのどこかで、見直せなかったのか?というのが私の疑問です。ただ、恩恵を被ったナチ側の法曹関係者が引退ないし高齢で死亡していったことも関係しているかと思います。長々とすみません。
うーん、明らかに自分の勉強不足を突きつけられました。ドレーアー法、1969年?で実は頭が?になったまま放置してました。「68年世代」という言葉がリベラル世代という意味で使われているドイツで、まさにその時代にそういう法律?と思ってました。bloodtrailさんのレビュー読み、学生救済、SPDでなるほどと腑に落ちました。