「すべての法が正義に叶うわけではない」コリーニ事件 shunsuke kawaiさんの映画レビュー(感想・評価)
すべての法が正義に叶うわけではない
もし、この映画の主人公の弁護士が感情に支配される人だったなら、この事件の弁護士に就くことを断っただろう。自分自身の恩人を殺害した被告を弁護しなけばならないのだから。
だけど彼は弁護する決断をした。
断れば断ったで、弁護士として負け犬の汚名をきせられるかもしれないし、弁護士として一度仕事を受けた以上は責任を果たさなければいけないという職業的な倫理感や、なぜあの恩人がこんな目に遭わなければいけなかったのかを知りたかったからというのもあると思う。
トルコ移民で母子家庭で育ち、差別や偏見と闘いながら人一倍苦労して弁護士になった以上、安易に感情に流されて逃げたくなかったし立ち向かった。
もし、彼がトルコ移民ではなく、ドイツ生まれのドイツ人だったら、過去にドイツが背負った負の歴史に真正面から向き合うという別の問題がクローズアップされてしまうことになったかもしれない。知りたくも見たくもない自らの国の暗部を根掘り葉掘り調べていくのはドイツに生まれ育った人間なら、それは苦痛以外の何ものでもないだろう。ただ、そうした苦痛を受け入れて戦後生まれの世代が両親たちの世代が生んだナチス時代の過去を批判追及して正してきた国なので、散々見聞きした、過去にどう向き合うかという抽象的で大きな話に流れが向かって散漫になってしまったと思う。
散漫にならなかったのは、主人公が個人的な感情的苦痛や不都合な真実に立ち向かうというスタイルを貫いたおかげだと思う。主人公は、被告人を弁護すること、つまり法に努めようと頑張った。恩人やその家族、検察側に就いた尊敬する教授も敵に回す覚悟で自らの精神を崩壊させるかもしれない出来事に立ち向かった結果、逆説的に、法が守れなかった正義が炙り出されることになった。
結果的に被告はああした最後を遂げたが、被告にとっての正義は法的には達成できなかった。戦争犯罪者を裁く時効を設けた戦後の法律の制定によって、法に彼は裏切られた。悪法は不条理な結果を生んだ。その不条理に法は何をすることもできなかった。法が正義を保障しないという事実があったときに、それでもその法は守られるべきかどうか。守られるべきでない法もあるということを主人公は法廷で示した。法の前にまず正しさとは何かという話があるということについて考えさせられた。
そして良いことをしたとして彼は世間や恩人の娘からも理解を得られた。彼に敬意を表した。彼は自己保身的な個人的な感情に流されずに正しいことをしたから。その精神こそが法にとってふさわしいものだと思えた。