行き止まりの世界に生まれて : 映画評論・批評
2020年8月25日更新
2020年9月4日より新宿シネマカリテ、ヒューマントラストシネマ渋谷ほかにてロードショー
変化する人間関係と流れていく時間を描いた、とても正直で知的で優しい映画
“名もなき市井の人”を描く――そんな触れ込みの映画がこれまでに何万本作られてきただろう。しかしフィクションであってもドキュメンタリーであっても、作り手の視点が介在する限り、100%純粋な現実に近づくことは難しい。
しかしアカデミー賞候補にもなったこのドキュメンタリー映画は、限りなく本物の現実を映すことに成功しているように思える。なぜなら“名もなき市井の人”である当事者が監督し、(最初はたまたま)自分たちに12年間カメラを向け続け、しかもドキュメンタリー作家に必要な観察眼を備えていたという、奇跡のようなめぐり合わせで生まれた作品だからだ。
中国系移民のビン・リューは、荒廃した人口15万人の町ロックフォードで、スケートボード仲間とスケートビデオを撮影する少年だった。やがてリューは町を出て映画業界で働き始めるのだが、地元の仲間たちのことも撮影し続けていた。スケートビデオは、いつしか仲間たちの人生を追うドキュメンタリー映画に発展していく。
主人公に選ばれたのは、父親に暴力を振るわれている黒人の少年キアーと、仲間の中でカリスマ的な存在だった若者ザック。ザックはガールフレンドとの間に子供が生まれ、懸命にいい父親になろうとしていた。少なくとも最初のうちは……。
この作品がどんな形に仕上がるのか、監督も含め誰もわかっていなかっただろう。しかし一緒に育った仲間であるリュー監督の前で、キアーやザックは飾らぬ本音を語り、時にみっともない姿もさらけ出す。そして「家庭内の暴力の連鎖」というテーマに踏み込んだことで、リュー監督は自分自身や母親にもカメラを向ける決意をしたという。彼自身も継父の家庭内暴力に苦しんだ当事者だったからだ。
筋書きのない人生を映しているから、この映画に明快なストーリーやゴールはない。タイムカプセルのようにかけがえのない瞬間を封じ込めている、と言えば聞こえはいいが、聡明なリュー監督は、自分たちをノスタルジーで包んで美化しようとはしない。
例えば仲間たちがフザケて黒人をネタに冗談を飛ばしている時、カメラはキアーの複雑な表情を見逃さない。輝くような青年だったザックの凋落からも目をそらしたりはしない。自分たちの未来は不安定で、善悪の境目は限りなく曖昧で、すべては道半ば。しかしそれでも、友情や希望のかけらは残っている。変化する人間関係と流れていく時間を描いた、とても正直で知的で優しい映画だと思う。
(村山章)
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