「西野の乱」映画 えんとつ町のプペル スコセッシさんの映画レビュー(感想・評価)
西野の乱
西野さんは好きでも嫌いでもないですが、YouTuberやオンラインサロンの活動は知っています。絵本展にも行った事があるので、西野さんの活動にはわりかし肯定的です。
この映画を見て思ったのは、これは西野の乱だなと思いました。
江戸時代に隠れキリシタン達が起こした、島原の乱というのがありましたが、それに近い印象を受けました。
島原の乱は、単なる一揆とする見方では説明がつかず宗教的な反乱という側面をもっています。
同じように、えんとつ町のプペルは西野さんが社会から弾圧された反乱の歴史のようです。
つまり、夢(西野教)を語ったら宗教弾圧を受けた。
教祖はオンラインサロンという結社を作り、隠れ信者達を集めていった。
えんとつ町のプペルは信者達に取って聖書と同じ聖典で、自分達の信仰の対象である。
そして、映画えんとつ町のプペルは公開となった訳ですが、その内容は体制側によって言論統制された社会。そこで夢(西野教)を語れば弾圧された。ところが、ルビっち少年はその迫害に負けずに夢(西野教)を叶える。
つまり、えんとつ町のプペルとは西野の乱じゃないですかね。
で、この映画面白かったのかと言うと、つまらなかった。
言論弾圧、宗教弾圧、信仰、社会風刺など扱っているテーマは興味深かったんですが、映画としての作りが下手くそでした。
同じ題材で、マーティン・スコセッシが監督した『沈黙 -サイレンス-』というのがありましたが、その方が面白かったです。
西野さんは映画のメッセージとして、信じぬけと言っていますが、それはキリスト教でいう信じる者は救われると同義だと思いました。
つまり、「神の国は、見える形では来ない。 『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。 実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」と聖書では説いています。
神の国とは、常に求め続け、願い続けているべきものであり、つまりは信仰によってもたらされる心の平安と喜びに他ならない。そこで意識されるのは、あくまでも”私”と”神”との1対1の関係。どのような責め苦に遭おうとも、信仰を持ち続けることで常に神の国は開かれ、喜びのうちに生きていくことができる……というイメージだ。
よって、殉教者たちの胸の内としては、「こうして死ねば神の国に行くことができる」の前に、「どのような境遇にあっても、主を信じ、主の愛を感じ、神に仕える」であるはずなのだ。
結果は不問。すべては神の御心なのだから、という境地。
しかし、西野信者以外にはこの教えは拒絶反応引き起こす。
これは、キリスト教が常に直面してきた「インカルチュレーション(文化的受容)」の問いに他ならない。
汎神論がはびこる日本において、絶対的な神、ただ一つを信じる父性的なキリスト教と同じ西野教は受け入れられなかったというより、理解できなかったのである。
それによる弾圧が主人公の苦難となり、その葛藤を『沈黙 -サイレンス-』では映画としてまとめ上げ、一般の観客にも問いを提示していた。
しかし、映画えんとつ町のプペルにはそこまでの思想性や描写はなく、押し付けがましい作りだった為、駄作に終わってしまった。
マーティン・スコセッシと西野亮廣、言論弾圧、宗教弾圧、信仰、社会風刺という同じ題材を扱ってはいるが、映画製作者としての力量の差が圧倒的に違っていたと言わざるを得ない。
ちなみに、マーティン・スコセッシの作風は、腐敗した矛盾に満ちた現実のなかでいかに人間としての倫理と善良さを実践できるか、それがしばしば不可能であることの苦悩を追求する映画が多い。また、そのなかでは人間の人間に対する無理解と不寛容の直接的表現として、リアルな暴力描写が重要な位置を占める。
極端な映画マニアでもあり、黒澤明の映画を名画座に通い続け鑑賞し、実際にフィルムを手にし、カットの構成を研究し尽くしたという。
しかし、西野映画には、その片鱗が見られませんでした。
多くの映画関係者が“神様”のように思っている名匠マーティン・スコセッシが、マーベル映画について聞かれ、『あれは映画ではないテーマパークに近い』と発言した。
『私にとって映画とは、芸術的、感情的、精神的啓示を受けるものであり、時として矛盾をはらむ複雑なキャラクターたちとその葛藤や、彼らが傷つけ合ったり愛し合ったり自分と向き合うさまを描くものである』と持論を展開した。
つまり、私に言わせれば「えんとつ町のプペルは映画ではない。ゴミ人間のテーマパークだ」
要するに、ゴミ人間テーマパークのようなアトラクション映画で中身がない。
キャラクター達のセリフも西野の主張を一方的に喋らせているだけで、キャラクターが死んでいる。
なので、誰にも感情移入ができない。
その上、映画としての芸術的、感情的、精神的啓示を受ける要素がない。時として矛盾をはらむ複雑なキャラクターたちとその葛藤や、彼らが傷つけ合ったり愛し合ったり自分と向き合ったりという描写がないので、キャラクターと物語に魅力がない。
そういう作品は一般的に駄作と呼ばれる。