「傑作であると信じたい」地獄の黙示録 ファイナル・カット 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
傑作であると信じたい
キリスト教徒ではないが、新約聖書の「ヨハネ黙示録」は読んだことがある。数字がたくさん出てくる文章で、中でも七が顕著に多い。七つの教会、七つの霊、七つの金の燭台、七つの星、七つの灯、七つの封印、七つの角、七つの目、七つのラッパ、七つの御使い、七つの雷、七つの頭、七つの冠、七つの災い、七つの鉢、七つの山、七人の王といった具合だ。人間を指す数字は六百六十六である。
「ワルキューレの騎行」を響き渡らせながらのヘリコプターの編隊の有名なシーンは、映画館の大スクリーンと大音響で鑑賞すると凄い迫力だ。空挺部隊のキルゴア大佐の狂気がヘリコプターのローターによる熱気のうねりとともに画面に広がる。アメリカ軍のずっと向こうにいるジョン・F・ケネディの狂気が透けて見えるようだ。ケネディの最期となったダラスのパレードにも「ワルキューレの騎行」が似合う。
ウィラード大尉を演じたマーティン・シーンは終始無表情の演技で、凄腕の殺し屋のリアルな素顔を上手に表現した。この男が他人の死に眉ひとつ動かさず、感情を一切顔に出さない冷酷無比な暗殺者であることはすぐに分かる。そしてその動機は冒頭でうまく説明される。つまり戦場という極限状況に慣れすぎて、平凡な日常生活では生きている実感が沸かなくなってしまったのだ。同時期に公開された映画「ディア・ハンター」でロシアンルーレットを繰り返す男たちにそっくりである。
20年に及んだベトナム戦争は、終盤になるとカオスの様相を呈してきた。南北のベトナムそれぞれに東西の陣営が応援に付き、冷戦の代理戦争の意味合いも加わって、正義の定義や概念さえ疑わしくなってくる。そして無意味に犠牲者を出し続ける戦争に対する嫌悪が世界に広まり、アメリカ本国では反戦の声が大きくなる。こうなると戦争の英雄はもはや誕生することがない。そしてサーフィンをするために島を焼き尽くすような意味不明の作戦が実行される。
残念ながら「ヨハネ黙示録」にあるような七という数字に関するメタファーのようなものは作品の中では発見できなかったが、戦争が地獄であり、その目撃者は地獄を黙示された者であるという意味合いは受け取れる気がした。本作品自体がカオスのような作品なので、観客はいつまでもこの作品を消化することができない。
「ヨハネ黙示録」の最終章には次の言葉がある。
見よ、私はすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれの仕業に応じて報いよう。私はアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである。いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門を通って都に入るために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである。犬ども、まじないをする者、姦淫を行う者、人殺し、偶像を拝む者、また、偽りを好みかつこれを行う者はみな、外に出されている。
まさにこの言葉を映像化したようなシーンが多く登場する作品であり、ダンテの「神曲」や源信の「往生要集」を彷彿させる。イデオロギーやヒューマニズムよりも人間の根源的な不幸を壮大なスケールで象徴的に描き出す、傑作であると信じたい作品だ。