劇場公開日 2020年10月9日

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「少女の心の闇を訪ねてみた」星の子 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)

4.0少女の心の闇を訪ねてみた

2020年10月15日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

 テレビのインタビューで共演の岡田将生や大森立嗣監督が16歳の芦田愛菜のことを「愛菜ちゃん」ではなく「芦田さん」と呼んでいるのを聞いて多少の違和感があった。しかし本編を観ると、その見事な演技で場の雰囲気を全部持っていってしまう場面がいくつもある。共演者が「愛菜ちゃん」ではなく「芦田さん」と呼ぶのもさもありなんと納得した。
 本作品で彼女が演じた主人公ちひろは素直で頭のいい中学生である。自分の家のことは自分が一番よく知っている。隠すことも恥ずかしがることもない。全部ひっくるめて自分の家族なのだ。その堂々とした主役ぶりに感心した。
 いいシーンがいくつもあるが、大友康平演じる伯父さんを相手に両親のことを「わかってる」ときっぱりと答えるシーンがもっとも印象に残っている。宗教にハマっている両親のことも、その宗教がマイナーで変だと思われていることも、マイナーな宗教の信者が世渡りの上で不利を受けるかもしれないことも、全部わかっている。伯父さんよりずっとわかっている。
 それに伯父さんが知らないこともある。両親がどれだけ自分のことを大切にし、姉のことを心配しているか。両親は自分のために宗教に入信したのであって、宗教が先ではない。世間の人たちが両親の価値観を蔑んでも、信じているものは仕方がないではないか。
 伯父さんたちや教師にはそこが分からない。キリスト教や仏教や神道が認められるのであれば、新興宗教も認められなければならない。それが信教の自由だ。新興宗教が否定されるのであれば、キリスト教や仏教や神道やイスラム教さえも否定されなければならない。しかし日本で18万を超える宗教法人はもはや否定の余地がない現実だ。
 両親の信じていることを自分も信じているかと聞かれれば少し迷いがある。しかし両親が信じている内容がどうあれ、両親のことは信じている。自分や姉に対する揺るぎのない愛情は疑いの余地がないからだ。

 黒木華の昇子さんが言う「あなたがここに来たのはあなたの意思ではないのよ」という言葉を考えてみる。この言葉はどうとでも受け取れる。昇子さんは宗教団体の幹部らしく、何か見えない大きな力に動かされてここに来たのだとでも言いたいのかもしれない。
 しかし別の考え方もある。人間は無意識にいろいろなことを決断している。朝、時計を見る。起きるかどうか、起きたら歯を磨くより先にトイレに行くかなど、小さな決断の連続だ。平凡な日常生活でも一日に200回以上も決断しているらしい。
 昇子さんが言っている「意思」は意識のことで、ここに来ようと意識的に決意して来たのではないと言いたいのかもしれない。無意識の決断がここに導いたのだと。しかし無意識もその人の「意思」のひとつである。意識していなくても職場や家に辿り着くように、人間の生活の殆どは無意識が決断をしている。
 無意識の世界は意識の世界よりずっと広大で豊かである。愛も恋も怒りも憎しみも無意識の領域にある。無意識の部分を意識によってコントロールできれば、怒りや憎しみ、不安や恐怖といった感情を抑制できるだろう。昇子さんがいつも笑顔なのはその辺りに秘密がありそうだ。そして水をきっかけにして人々の無意識をコントロールすることで教団が成立しているということも考えられる。昇子さんの言葉がいつも謎めいているのは、そこに教団の秘密があるからかもしれないのだ。

 ちひろには昇子さんの多義的な言葉はまだ理解できない。今後も理解できるかわからないし、両親も理解しているとは思えない。人間は不安と恐怖にさらされたままでは生きていけない。どこかで無意識をコントロールして、不安と恐怖を弱めなければならない。般若心経に「無有恐怖遠離一切顛倒夢想究境涅槃」という文言があるように、恐怖がなくなれば心が平穏になって幸福の境地に至るというのが仏教の考え方だ。そう言えばすべての宗教は生きている人間から生の不安と死の恐怖を取り去るのが目的である。本作品の教団も同じなのだ。
 大森立嗣監督は人間の心の闇を描く。ちひろの心にも広大な闇がある。教団をひとつの扉として、少女の心の闇を訪ねてみたのが本作品だと思う。パンドラの匣のように、ちひろは闇の中から希望を取り出すことができるのだろうか。

耶馬英彦