「ほんとの別人メイク」スキャンダル 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
ほんとの別人メイク
エンタメニュースには「あれ、こんな顔だったっけ」枠がある。
ポータルにはまいにち他愛ないエンタメニュースが挙がってくる。
顕著なのは、芸能人の誰某がSNSを更新し、その態様または発言が好評あるいは炎上──というものである。
そんななかに、写真系SNSでの顔に対して「あれ、こんな顔だったっけ」と反響が寄せられた──というものがある。
もとよりメイクは、別人や若返りを目途にやるものではなかろうか。
芸能に生きる人なら尚更そうであろう。
「あれ、こんな顔だったっけ」と思われることを目指している彼女の、なんども取り直したはずの写真に「あれ、こんな顔だったっけ」とは、素直な反応である。素直というか、下世話というか、発言の有効性が希薄である。
きょうび、どうにでも撮れるだろうに。
もっとも、芸能人の写真系SNSに寄せられるコメントに、有効性の希薄でないコメントはない。
わたしも小市民ゆえ「あれこんな顔だったっけ」の釣りに、インスタを覗く。
すると、まず間違いなく「あれ、こんな顔だったっけ」言うほど──ではない誰某が、そこに写っているのである。
この手のエンタメニュースをばかばかしいと一蹴する意見があるのだが、釣られた以上、ばかばかしいと言える義理はない。
あんがい、ばかばかしいと思っている人たちがポータルにあがるエンタメニュースをつぶさに拝観している──わけである。
ところで、シャーリーズセロンはよく見る女優である。
ただこの映画の彼女は、識別できない。
ほんとの「あれ、こんな顔だったっけ」である。
Monster(2003)の彼女は、それでもまだ判る。
しかしこの映画のばあい、スチールを見た時点で、キッドマンとロビーと、あれ・・・これは誰だ?となった。
映画のなかでさえわからない。
寄ってもわからない。
アカデミー賞において、衣装賞や美術賞、あるいはメイキャップ賞など、縁の下系の賞は、われわれ素人目には、すごみがよく解らないことがある。
もちろん男女優賞も、作品賞、監督賞であっても、主観からすれば、あの人よりこの人だろ、とか、あれよりこっちだろ、との感慨はまぬがれないものだが、専門系の賞は、規準を形成できないため、へえなるほどと納得するしかない。
が、Bombshellのメイキャップ賞の受賞は、素人目にも完全に納得ができる。
それが、すごい。
氏は受賞にともなって、アメリカ人に受け容れられやすい、通名にしている。
その戦略性にも感心した。
ものまねメイクで一世を風靡し霧消した芸人がいたが、メイキャップのような専門職において、目指しているところの違い──を見せつけた。
どんな分野でも、やる人はやるのだ──を感じたわけである。
個人的にいちばんよかったのはジョンリスゴー。食いまくり暴言吐きまくり。絵に描いたような醜悪。圧倒的に隔意を催させる。昔っからうまい人だった。
映画はやや告発色がつよい。純粋なエンターテインメントを逸脱する怨嗟が見える。
がんらいドキュメンタリーになるものを、メーガンケリーらの知名度がハリウッド女優を配した映画に仕立てた──の感があった。
すなわち被害者が声をあげるには被害者自身にも権勢が必要になるという構造が見え──なくもない。
これが何かといえばMeTooが有名人たちの出来事である──という誤解である。
とうぜんセクシャルハラスメントは巷にもある。
そこではMeTooのような大局な運動は役に立たない。
MeTooがなんとなく公的事業報告な雰囲気なのはその点だと思う。
ゆえに庶民としてはセクシャルハラスメントの映画というより、業界内の攻防ドラマに見える。
しかしそれはそれ。これはこれでいい。
フォックスの重役ロジャーエールスの話だったがイギリスのジミーサヴィルという人はもっと酷かった。百人超が性的暴行などの被害に遭いながら、当人はナイトの爵位を受勲した──とwikiに書いてあった。
MeTooは氷山を瓦解させつつあるけれど、まだ一角を感じる。それらは権力や宗教に隠れている。有名であろうとも、業績を残そうとも、故人であろうとも、その墓石には唾を吐くべきだ。
しかしいまわたしが唾を吐きたいのはこの邦題である。
リザガストーニのと重なるしジョアンヌウォーリーキルマーのとも重なるしチョンドヨンのとも重なる。ぜんぶわたしのお気にである。