愛国者に気をつけろ!鈴木邦男のレビュー・感想・評価
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監督や周囲の目線暖かくご本人の目線は360度ぐるり
上映後監督の中村真夕さんと宮台真司さんのトーク付きの回で鑑賞。
昔の怖いイメージ(属性からの偏見も)晩年の,YouTubeに上がっているものなどでの冷静で明晰で人間味溢れる言説しか知らなかったので、朗読劇とかされていたのか、こんなにたくさんの多岐多様な人脈と繋がり繋げあい,つなぎ役をしていてのか,ということに驚愕。
三島や森田への畏敬の念。自分は何もしていないに等しいという吐露。
靖国神社のシーンが冒頭とエンディングに、業者さんの記念撮影写真をしみじみと見入る。
コスプレして自己陶酔とマウント取りみたいに参拝する人らを横目に静かに参拝し、参道でさまざまな右翼系団体がビラ配りをすることについて、安倍政権になってからの現象、安倍政権になってからやらせているのではないか、
という貴重な証言。
全ての事におなじ意見の人間なんてほとんどいない。だから柔軟に他人の意見を聞く、分け隔てなく聞く、そして粛々と自分のことをするのが政治活動であり行動である、ということを確認。
昨日見た妖怪の孫は、観客は年寄りばかり。先週みたはセンキヨナンデスも年配が多かった。
こちらは、若い人がたくさんいた。
そういうことだけど、自分のことをやっていくしかない。
以下中村さん宮台さんトークからのメモ書き
世界観の違い
ハラハラ時計と狼
制度に変えても人は幸せにならない元々理不尽不条理なもの享楽個人の幸せは社会では担保されない
よくわからない 驚きました が表す彼の世界観
赤報隊事件
宮台真司襲撃の件
反知性主義
本でしか知らない 脳内エコーチェンバー
武断主義
武力による威圧
5年前に引きこもりを卒業して自転車で走り回るが社会復帰を果たしてない
ゆえになにか大きなことをしたかった
条件的無差別殺人と同じ。
山上さんとは違う,境界に対する強い恨みを持っていたことから安倍を標的にした,結果として世の中に影響与え社会が変わったが理由は違う
世界観価値観には意味がない
実存上の理由で行動するだけ
野村秋介
狼
出発点は淀号ハイジャック→三島由紀夫→おおかみ
→いきに感じた,情念の連鎖、感情的に許せないだからこれをする、日本的に最も尊いものと邦男は考えた,ゆえに左右関係ない連鎖
ギリシャ哲学
コモンセンス
エドモンドパーク
理性のキャパシティには限界があり制度を変えることは解決にならない
感情的視座からは見通せない悪しきものが社会にはある。これさえあればというイデオロギーはない、そこからの脱却、それを放棄して考える。インプレメントしてみること
共通感覚が消えていくとき
それをとりもどす。
良きものを保守することが維新 北一輝
情念の連鎖
元々あった右翼を保守して世直しをしよう ?
現在の保守には思考の伝統はない
保守とは
経済保守宗教保守と社会保守は違う
社会保守
対話の可能性がほとんどない
話せばわかる 的なものもかつては共通感覚としてあったが今の日本にはすっかりなくなった。、
匿名のSNSの卑怯さ
4ちゃんねる
英語圏であるがほぼ日本からの参加者6割
匿名であることのクソさから海外参加者は少ない
日本の劣化
良きものの継承
日本という枠組みではない
表現者はポピュラーになることを目的にしてはいけないロールモデルとなるような振る舞いを見せるseduction
そーゆー人になりたいという人が出てくれば良い。
三島由紀夫のら空っぽの日本
一夜にして早変わり
空っぽが1番の病
価値観イデオロギーとはいえない自己中心主義しかない。
「意見が違う人と話したい」
鈴木邦男という人物の、“応援ビデオ”と言っていいと思う。
もう少し言えば、“リベラル派”にとって好ましい姿や発言を切り取った映像集かもしれない。
鈴木の思想を、いくつかワンフレーズで示すのみで掘り下げることはせず、批判的にとらえる視点も皆無だった。
テーマは主に2つか。
(a) かつての“武闘派”のスターが、「不寛容や独善に対する、不寛容」という、“民族派”らしからぬスタンスを持つに至った理由、および、現在の活動の実態。
(b) 好々爺とさえ言える、現在の人柄。なぜ多くの人と関わり、特に女性にモテるのか?
ずっと同じことを繰り返し訴えている印象だが、様々に対象や事例が変わるので、冗長には感じなかった。
この作品には、いくつか不満がある。
まず、ほぼインタビューだけで、ダラダラと構成されていることだ。
関連する歴史は、すべて周知のこととして扱われ、客観性な解説やデータはなく、次から次へとエピソードや登場人物が現れる。
また、映画の尺の問題があるとはいえ、“現在の鈴木”を取り上げすぎである。
“オウム関係者”との交流(「麻原三女」、「上祐史浩」、「村井秀夫刺殺犯」)。“左翼”過激派(「東アジア反日武装戦線」や「日本赤軍」)への思い。
鈴木自身が興味をもってコンタクトを取ろうとするのは、このような振り切れた人々であり、“中庸”な存在には興味がないらしい。
そして、“鈴木邦男ガールズ”や鈴木を愛する人々の姿。彼らはみな、鈴木から“正しさ”を押しつけられたことはないと証言する。
しかしその一方で、過去の“右翼”活動は断片的に流されるだけで、鈴木という人の全体像は見えてこない。
「大日本愛国党」。「生長の家」学生運動。
「三島割腹事件」と「森田必勝」への痛切な思いについては、少し尺を割いている。
「一水会」の結成、“新右翼”の「野村秋介」。「赤報隊」の件は、妙に歯切れが悪い。
これでは何のための「鈴木邦男」のドキュメンタリーなのか?
特に、自分の“正しさ”を信じていた鈴木が、そのスタンスを大きく転回させた“失敗”とは何かが、観客には理解しづらい。
この点は、自分も映画では理解できず、上映後の質疑応答を聞いて分かったくらいだ。
帰宅後、「日本会議の研究」(扶桑社)の最終章を読むと載っていた。
鈴木は上映後のトークで否定しなかったので、上記の本は少なくとも鈴木サイドからは真実のようだ。
端的に言えば、内部抗争だ。「同じ考え方をもってたって、簡単に人間は裏切られる」。「同じ人たちを集めて運動するなんて、もうやりたくない」。
貴重な作品だとは思う。
しかし、結局のところ本作品は、「右がダメだと思った時、左翼や宗教の人たちがどういうふうに考えているのか興味が出てきた」と語る、作り手にとって“受入れ可能”な部分を取り上げただけという印象だ。
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