「ひとつの立派な生き方であった」リチャード・ジュエル 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
ひとつの立派な生き方であった
イーストウッド監督らしく、主人公リチャード・ジュエルを長所も短所もあるリアルな人間として描く。リチャードは必ずしも好きになれる人柄ではないが、如何にも世間にいそうなタイプであり、ひとつの典型である。
主人公に感情移入できない代わりにイーストウッド監督が用意したのが弁護士のワトソン・ブライアントだ。その心根には熱く滾るものがあるが、態度は常に冷静で、権力を恐れないし圧力に屈しない。弁護士だからといってクライアントであるリチャードに必要以上に強制したり、その人格を否定することもない。あくまで冤罪事件の被害者として彼とその母親の人権を守り、救おうとする。
ブライアント弁護士のメンタルが安定しているので、そこからは落ち着いて鑑賞できる。ワトソンはFBIも役所のひとつに過ぎず、役人がどのように振る舞うかを知っている。日本の役人と同じく保身が命で、そのやり方は十年一日の前例踏襲主義だ。
日本の警察では事件を効率的に処理するために、捜査本部の管理官は容疑者の凡その目星をつけて、恣意的に捜査を指揮する。目星をつけられた者は重要参考人として任意同行の名目で強制同行させられ、拷問に近い執拗な取り調べを受ける。警察にとって誰が真犯人であるかは問題ではなく、容疑者をいち早く検挙することが目的である。目星をつけた人間にアリバイがなければ自白を強要して犯人に仕立て上げることで事件の処理が終了する。自白があれば客観的な証拠は僅かでいい。場合によっては取調室で容疑者が飲み物を飲んだグラスに付着した指紋を凶器に貼り付けることもあるらしい。都市伝説かも知れないが。
アメリカでは長時間の拘束による自白の強要は認められていない。この辺りは流石に民主主義の先進国である。捜査官は客観的な証拠をなるべく多く集める必要がある。事件の状況を細部まで頭に入れ、集めた捜査資料と照合して真実を浮かび上がらせる能力が要求される。警察官の能力の差が歴然と現れ、優秀な警察官がたちどころに事件を解決する場合もある。事件捜査がドラマになるのはそのためだ。しかし個々の警察官の能力差によって事件の解決に格差ができてしまうようでは法の下の平等とは言えない。おそらく今後はこの分野にもAI技術が導入されるだろう。データ照合の精密さなら人間はAIに敵わない。
日本で同じ事件が起きていたら、リチャードは間違いなく有罪になっていただろう。警察官による暴行を受けてPTSDになっている可能性もある。取調室は密室で、昨年から可視化が法制化されたとはいえ、カメラの死角で何が行なわれているかは当事者以外にはわからない。容疑者を裸にして肛門に試験管を突っ込むと、容疑者の精神が崩壊して何でも自白してしまうという話がある。都市伝説かも知れないが。
政府とマスメディアがスクラムを組めば、個人などひとたまりもない。しかしアメリカは個人が戦う場を用意する国である。日本との絶対的な違いがそこにある。民主主義とは手続きのことだ。アメリカは情報公開法によって立法府、行政府、司法府のすべての情報は保管され、一定期間を経た後には必ず一般公開される。書類を捨てたとか最初からなかったなどと誤魔化すのはもはや民主主義を放棄していることに等しい。推定無罪の原則は日本ではあってなきが如しだが、アメリカでは捜査当局、司法当局をどこまでも拘束する。民主主義が機能している国とそうでない国の違いである。
コーラやジャンクフードが大好きな幼児性の精神の持ち主であるリチャードだが、副保安官をしていたこともあり、遵法精神に富んでいてしかも権威に弱い。はっきり言って社会的にはいいとこなしだ。だがそんなリチャードにも見せ場がちゃんと用意されている。FBIの支部での取り調べが本作品のヤマ場であり、リチャード・ジュエルという人間の真価が発揮される場面でもある。イーストウッド監督が撮りたかったのは間違いなくこのシーンだ。
何故か連想したのは、テレビドラマ「義母と娘のブルース」での主人公宮本亜希子の台詞である。PTAと揉めてしまい、訪れた学校で娘から「私が嫌われるようなことをしないで」と言われるが、その言葉に対して亜希子は、子供が嫌われることを恐れて口を噤み、陰で悪口を言うような姿を娘に見せたくないと力強く反論する。綾瀬はるかの名演とともにいまでも心に残る名シーンだ。ちなみに脚本は映画「花戦さ」の森下佳子さんである。いい脚本を書く人だ。
権威や権力、パラダイムに表立って反対するのは勇気のいることである。しかし長いものに巻かれて唯々諾々と生きているのでは、人格が消し飛んでしまう。尊厳が失われるのだ。それは人間としての存在の危機である。だから人は最後の最後には覚悟を決めて戦う。戦い方にはいろいろあり、その場から逃げることも、意を決して自殺することも戦いのひとつとして認めていい。リチャード・ジュエルは逃げもせず自殺もせず、ただ淡々と自分の意見を語る。ここで観客は初めてリチャードの勇気に気づくのだ。一寸の虫にも五分の魂。リチャード・ジュエルの人生はひとつの立派な生き方であった。