「事実と虚構を混ぜる実録娯楽作の難しさ」リチャード・ジュエル andhyphenさんの映画レビュー(感想・評価)
事実と虚構を混ぜる実録娯楽作の難しさ
すっかり実録物の映画監督となったクリント・イーストウッドも89歳。
「リチャード・ジュエル」の物語の粗筋を聞いたときにまず思い出すのはやはり松本サリン事件だった。河野義行氏は実際にリチャード・ジュエル氏に会ったことがあるそうである。
人の思い込みというのは恐ろしいもので、この人はこう、と思い決めたら中々柔軟に考えを変えることができない。とにかく都合の良いストーリーを作りたがる。それがたとえ、最初描いたストーリーから外れたとしても。
「アイ、トーニャ」の怪演が心に残りすぎるポール・ウォルター・ハウザー(あれはマジで実在のひとに似てたよ...)。お世辞にも「ふくふくしてますね」だけでは表現できないふくよかさと、恐ろしい程の融通の効かなさ。あまりにも無邪気な権威への信頼。
彼のイメージがあまりにも犯人くさい、という理由だけで(しかも都合よくそういうイメージを補強するネタが集まるのである)、獲物捕らえたり!になってしまうジョン・ハム。思い込みは恐ろしいのだ。一旦思い込みで「こいつ犯人だ」と思ってしまうと、そのバイアスからは逃れられない。本当は捜査官こそそういう思い込みから解放されていないといけないのだが、人間はそうそううまくできていない、とジョン・ハムが教えてくれる(特に彼の最後の台詞がね...)。
実際は証拠などない(というかむしろ、彼には無理という証拠はある)のだが、メディアにすっぱ抜かれ(この描き方が炎上している)、メディアスクラムを形成されてFBIには追い詰められてリチャード・ジュエルと母の生活は崩壊する。プライバシーも何もない。最近いつも思うが「容疑者」、しかも逮捕されていない時点でここまでプライバシーを身ぐるみ剥がされなければならない社会は何かおかしいよね。幼い頃は当たり前に思ってたけれど。
リチャードの味方は「10年前、自分を職場で唯一人間扱いしてくれた」弁護士サム・ロックウェルと母キャシー・ベイツだけ。このふたり、さすがオスカー俳優。ポール・ウォルター・ハウザーを食うことなく、それでいてその存在感を遺憾なく発揮する。キャシー・ベイツの会見は素晴らしかった。伝わるものが凄い。
そして、この映画で問題となっている記者の描写。あまりにも類型的に描かれたオリヴィア・ワイルド演じるキャシー・スクラッグス。彼女は2001年に亡くなっている為、「身体を使ってスクープを取った」ことへの反論ができない。
ものすごく前向きに解釈すると、イーストウッドは「彼女もFBIに利用された存在である」ことを描きたかったのだろう(最後の取ってつけたような描写で推測する)。それでも、あのような演出は必要だったのか? メディアスクラムは恐ろしい。確かに恐ろしいのだが、それを増幅する為の装置としての、彼女の描き方は軽すぎるのではないか。彼女だけに焦点を当てて(そこに大袈裟な演出とフィクションを混ぜてまで)描く必要があったのかは疑問だ。そういう意味で、悲しいことに、この映画は中途半端な正義でしかない。
リチャード・ジュエル側が本当によく描けている(タイトルロールなんだから当然だが)だけに、メディアスクラムの問題は雑に扱って欲しくなかった。
アトランタオリンピックの映像やニュースの映像を絡めた演出は骨太で、さすがクリント・イーストウッドと思わせるところも多いだけに難しいものがある。