「草彅剛の真骨頂」ミッドナイトスワン MBさんの映画レビュー(感想・評価)
草彅剛の真骨頂
今日までに何度も15分予告を観てきていて、すでに私の中では剛くんというより凪沙になっていっていたのだけれど、映画ではもう冒頭から剛くんではなく凪沙その人だった。凪沙はとても優しい人。優しさに溢れた人。でもとても孤独な人。そんな凪沙が、従姉妹の娘で、虐待をされてきたやはり孤独な一果と暮らすことで、母性に目覚め、愛と優しさがより一層溢れ出す。過ぎるほどに。
今は色んな人や媒体が、自分らしく生きることが何より大切と声高にいうのが当たり前のような風潮で、実際私も私らしく生きたいとか思っているけど、じゃあ実際自分らしく生きるって何?本当の意味ではどういうこと?と、ものすごく考えてしまった。自分らしく生きるのであれば、凪沙は性転換手術なんてしなくても、一果の母になれた。でも、どうしてもそうしなきゃ納得できない気持ちが、凪沙にはあったのだろう。自分らしく生きるのであれば、一果はあのとき、本当の母親を振り切って凪沙と一緒に東京に戻ったんだろう。自分らしく生きるのであれば、早織はあんなに一果に執着せずに済んだのであろう。自分らしく生きるのであれば、りんはあんな風に一果を陥れようとも、自分の命を絶つこともなかったのだろう。結局、みんな自分らしく生きるつもりが、周りの目、自分以外の人間がどう思うかに惑わされてしまっているんだなと。みんな、惑わされて、そうせざるを得ない状況に自分を追い込んでしまっているんだなと思った。凪沙に伝えたい。そんな危険な手術なんかしなくても、身体なんか男性のまんまでも、おかあさんになれたんだよって。そうしたら、もっともっと一果と一緒にいられたのにって。しかし、とにかく、この映画全般を通して、凪沙のあの表情や立ち居振舞い、胸を露にするところとか、股間から血が滲んでいるおむつ姿とか、それをいかにも役を演じています、という雰囲気ではなく、その役その人になりきって演じることができるのは、世界中探しても剛くんだけだと思う。一果とりんの、少女ならではの危うい関係性もリアルだった。剛くんが凪沙そのものだったように、一果も、ほかの出演者もそれぞれその役そのものだった。そうか、なるほど、観終わった後、なんだかどうにも説明のつかない気持ちだったのは、まるでドキュメンタリーだったからか。
凪沙の、どうしても、なにがなんでも一果にバレエを続けさせたいという気持ち、それが未来の一果に繋がって、まるで凪沙が歩いているかのような姿で歩き、素晴らしい舞を魅せる一果。それがリンクしたとき、涙が止まらなかった。
なんて素晴らしい映画。なんて素晴らしい演技。たくさんの役者が嫉妬した、あるいはするだろう、否、嫉妬の前に自分にはこれほどまでに演じきれないと降伏するだろう。そう思うほどに剛くんの演技は凄まじかった。
観終わって、何時間も経つのに、半日くらい経つのに、まだ興奮と感動が冷めやらない。15分予告をまだ何度も観てその余韻に浸っている。凪沙を思って涙が出てくる。こんな映画、初めてだ。
上映終了になる前に、もう一度観に行きたいと思う。