花束みたいな恋をしたのレビュー・感想・評価
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男は弱いよ
好みがこんなに一緒って、なんかきょうだいみたい。若い時はそういうのもいいかも。でも、ふたごみたいな夫婦もいるし、仲が続くかどうかは、運なのかもしれないな。
友達の結婚式で、麦も絹もそれぞれ別々に、別れの決意を口にする。帰り道のファミレスで、さあ別れ話って時、日和るのは男の方で、決然とするのは女の方だった。しみじみ、男は弱い生き物だと思った。
ごく普通の恋愛の話で、誰にでもあるような出会いと別れを、丁寧に描く。有村架純と菅田将暉が、ほんとにかわいい。2人の幸せそうな姿が、なんか終わりを予感させ、胸が詰まった。甘さと苦さ、両方味わうのが人生だね。
TBSの放送を視聴。
時の流れと慣れ
青春ですね
1回目2回目は彼女側の考えがわがままだと思ってたけど、今回見てみて...
おい、いい加減ショーシャンクを解放してやれよ
中⚪︎くんのおかげで…笑
某番組が放送休止となり代替放送で視聴。
リアタイでも見ており、どこかでサブスク視聴もしたのでこれが3回目かな?
ある種語られ尽くされてる映画かなと思いますがざっくりと。
偏執的なまでの固有名詞の細かさと、カップルが属している世界線の定義のリアリティーライン。
これがこの映画に異常な具体性を与え、本当に平凡なカップルが付き合って、すれ違い別れるだけの映画なのにも関わらず、受け手の心にズシンと共感と重みを与えると言う印象です。
上手いな、って思うのが、定期的に普遍的なものが差し込まれるんですよね。「絹が初めて泣くのを見たのは」「またかとは思うよ、またかだから」「じゃあ、って何?」このラインが絶妙。
誰しもが体感したことのある感覚が、そのカップル固有の事情の中に差し込まれる。これって要するに友人から、恋人と別れた報告を聞く行為の追体験そのものですよね笑「いやぁ、俺もさぁ…」と言いたくなる。
構造論的にはそこの巧みさに尽きると思います。
3回目なので友人とダラダラLINEしながら見ていたんですが、そんなに恋愛経験豊富じゃない二人が「そう言えば前付き合っていた人とさぁ…」と、まんまと自分語りを初めてしまうという笑
たぶん普遍的なものだけでも「はいはい」になっちゃうんでしょうし、固有名詞だけでも「鬱陶しい映画」になっていたのかな。職人芸的なバランス感覚ですよね。
しかし、めちゃめちゃ脇道ですが当初から気になっていたことが一点。
麦と絹が明大前の居酒屋で朝まで過ごす出会いのシーンで、すぐ近くにいる本物の神様・押井守に気づかない、軽薄な会社員の表象として描かれていた男女が「俺って結構マニアックな映画見ちゃうからさ。ほら、ショーシャンクの空にとか」
脇道ですが、ほんとうに脇道ですが、もうそろそろショーシャンクを「普通の名作映画」の表象にしたってくれよ!これを名作というと通ぶれるみたいな代名詞になってた時代も知ってるけど、それも20年前くらいの話だろが!こんな色んな人が見る映画でそのポジションに追いやらんでくれ!変なイメージつくから!
など思ってしまったのでした笑。すみません、脇道ですね。
最後に「SMAPが解散しなければ、私たちも別れなかったのかな」そうだね、SMAPが解散しなければ、回り回ってこの放送もなかったかもね。絹ちゃん上手い!いうてる場合か。と言ったオチまでついて、ゆるく良い映画を楽しめた週末なのでした。さっくり見れますし、やっぱり良作ですよね。
等身大な恋人の話
今を時めく人気俳優、女優の初期の名作・・・
「花束」とは何か。この映画に共感する人に対する強烈な皮肉が込められている。
花束とは何か、ですよね。「綺麗なものを寄せ集めた」「金で買える」「すぐに枯れてしまう」ものです。それが2人の恋愛であるということでしょう。
本作は「スタイル」で生きることへの強烈な批判です。彼らの理想は「好きな事をやる」でしたが、それは親の金で作られた虚構でした。つまり、外部の価値観に仮託しないと自分の恋愛や願望すらわからなくなっている底の浅さを描いています。芯がない2人が自分を消費で形作ることで、そこに自分があると思い込んでいるということです。
「好きな事」は楽しい事でしかありませんでした。しかし、楽しい事も本当の意味で楽しいい事でなく、楽な事だったということです。つまり、恋愛も同じだったということです。
押井守、宝石の国、ゴールデンカムイ…いろいろ出てきますが2人は会話でその深掘りをしません。泣けるかどうか、面白いかどうか、特殊かどうか、カッコイイかどうかで選んでいます。普通の映画ならそこに意味性を持たせるはずです。その意味性をあえて排除したのは、彼らのサブカル指向はスタイルであるということです。
靴がお揃いから仕事用の革靴になることで2人が違う道を歩みだすという示唆になっていました。音楽のLとR。同じ生活をしていていも見え方が違うということと同時に、それは本物ではない、という意味もあるのでしょう。2人の部屋のうさん臭さがそれを表現していました。
生活がかかってきたときの男女の考え方、別れ間際の男の往生際の悪さなどはわざと一般的に描いたのでしょう。要するに特別だと思っていた2人はまったく特別ではなかったという意味です。
2人がファミレスで泣いた理由。若い昔の自分たちの相似形を見て何を思うのか。有村架純は自分が犯した間違いが理解できたことでの悔恨あるいは自分の以前の輝きを失った失望感でしょう、菅田将暉はあの頃に戻ってやり直したいという願望だと思います。
浮気の会話はちょっと笑いますけどね。女は怖いです。
この映画は共感を得られるように作っておきながら、実は本作に共感する人に対して本当にお前たちは自分で考えているか?恋愛しているのか?という問いかけになっていると思います。その強烈な皮肉が読みとれるかどうかでしょうね。
映画そのものは面白かったですが、冗長感がなくはないです。もう15分くらい短くしてもらいたかったなあ。
あらためて菅田将暉を見直しました
”ベイビーわるきゅーれ 2ベイビー”つながりで、まったくジャンルの違う映画を観てしまった😅
こういうパターンで見る人は少ないだろうな
人は変わっていくから、出会いもあれば別れもある
別れたから悪い事でも無いし、出会えたからいいとは限らない
楽しかった事、悲しかった事もあるでしょう
そして、いつかみんな無くなる
死にますからね
その時その時を感慨深く生きればいい
羨ましいのは、若いうちからたくさんの出会いがある人
青春時代に、なんにもなく、無為にすごした人間にはうらやましいかぎり
いや、僕だって、頑張ったこともありましたよ
ただ、頑張っただけで終わってしまっただけ
十分にリア充だった人達には、懐かしい話でしょうね
美しい人達の愛の物語は好きです
寂しかったリアルを忘れて、没入するんですよ
まあ、ひねくれて観ない時期もありましたけどね
歳をとって素直になるようにしています
どこにでもある、ありきたりな出会いと別れ
はっきり言って、携帯小説かなと思うくらい、うっすい話なのに、なぜか胸を打つ
この時代を代表するスターである、菅田将暉と有村架純が演じているからなんだと思い知らされた
たとえば、北村匠海
”明け方の若者たち”を観たんですが、話はこちらの方が優れているくらいなのに、全く響かなかった
感想を書く気持ちにもならなかった
このあたりは、現在の力の差でしょう
最近、脇役をやっていい味を出していたので、少しずつ力をつけていけばいいと思いたい
共感
誰もが「あのとき」を思い出す映画
顔がイイ
こういう恋愛は、若い人だけの特権!
<映画のことば>
時間かけてさ。
長い間、一緒に生きて。
あの二人もいろいろあったけど、なんか今は仲のいい夫婦になったねって。
なんか、空気みたいな存在になったねって。
そういう二人になろうよ。
評論子のように歳がいってくると、この言葉の「重さ」「真実さ」というのは身に沁みるのですけれども。
若い人には、なかなか理解し難いものがあるかも知れません。
せっかく麦がこうまであからさまに自分の心情を吐露しても、絹の心には響かなかったようですけれども。
しかし、それは絹の「若さ」ゆえのことと理解しました。評論子は。
いえいえ、それが「いい」とか「悪い」とかいう、評価の問題でなく。
若い人たちの恋愛と、評論子に近いような年齢層の恋愛観みたいなものは違っていて当然とも思いますので。
ただ、本作のような恋愛は、若い人たちの、いわば「特権」であって、「年寄りは、こうはいかないなぁ。(涙)」とは思いました。
そんなこんなの感情が胸に迫る一本でもあり、佳作としての評価が適当と思います。
本作は、多くのレビュアーのみなさんが「有村架純の出色作」と評していることが気になって鑑賞した一本になります。
その点では、正にその通りで、評価子にも、これから(スクリーンの上で)彼女を観ていくことが楽しみになった一本でもあったことを、申し添えておきたいと思います。
(なお言えば、評論子が入っている映画サークルで、公開年の年間ベストテンにも選んでいた作品でしたけれども、残念ながら秀作とまでの評価は、評論子にはできませんでした。)
(追記)
本作の題名についてなのですけれども。
評論子は、疑いもなく「(記憶に長く残るような)花束みたいな(素敵な)恋をした」の意味に捉えていたのですけれども、レビュアーのみなさんのレビューを拝見すると、必ずしもそうとは限らないようにも思われます。
花束は、ふつう人に贈られるため(だけ?)に作られたものですし、切り花ですから枯れもするし…。
評論子のいちおうのレビューとしてまとめはしましたけれども。
そして、その意味合いは、絹と麦とでは、また違うのかも知れません。
おそらくは、レビュアーのみなさんが指摘しているとおりに、もっともっと多義的な解釈が可能なのでしょう。
その意味では、再観の機会が楽しみになった一本にもなりました。
(追記)
本作で絹と麦とが最初に出会ったのは京王線の明大前駅ということですけれども。
大学生の当時には、評論子もよく利用した駅になります。
そう思って注意を払って見ていましたけれども、往時の面影はなかったようで、当時とは、かなりリニューアルされている印象でした。
機会があれば、また明大前駅にも訪れてみたいと思います。
5年は長い
刺さった
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