「花束だって? いや、おまえらの恋からは腐臭がする」花束みたいな恋をした もりめろんさんの映画レビュー(感想・評価)
花束だって? いや、おまえらの恋からは腐臭がする
ただ面が良いだけが取り柄の、サブカル大好きなクソ男とクソ女。押井守はたしかに世界基準の監督だが、彼を知っていたところでお前らは単なる庶民に過ぎません。
そんなふたりが繰り広げる恋愛は、3日間乳繰り合っただの、焼きそばパンがうまいだの。まさに煉獄。「よもやよもや」の後に続くは、「これが末法か」という諦めの言葉だ。
キリスト教が説く「煉獄」とは、「天国と地獄の間にあるところ」。そこにあるのは、無味乾燥で荒涼とした不毛な空間だ。仏教が説く「末法」とは、仏の教えが廃れてしまい、もはや誰も救われることのなくなった時代を言う。イエスも仏陀も見放してしまった、このサブカルクソカップルの恋愛。かれらの恋と生活は、いくら噛んでも味のしないスルメイカのようだ。
麦、自分の「好き」を簡単に手放す男。
好きなものを続けていくには、熱意や環境だけじゃない、何より大切なのは「自分が「好き」であり続けるにはどうすればいいのか」と、自分の性格・趣味嗜好・能力と向き合い続けることなんだよ。いったん、「好き」を棚にしまったら、もう取り出すことができない。「好き」は、そういう風にできている。
絹ちゃん、恋人を理解しようとする努力をしない女。
いっつも受け身の癖に、最後の言葉まで麦に言わせやがって。大和撫子を気取りすぎだコンチクショウ!
ところで最近、主人公に「麦」という名前をつける文学作品が多い気がする。川上未映子『あこがれ』がぱっと浮かぶが、探せばほかにいろいろと出て来るとおもう。
かくいうわたしも、趣味で小説を書いている。まさにいま取り組んでいたものが、「麦と絹」という母子の話だった。名前、完璧に被った。彼らと同世代を、同じサブカルクソ野郎として生きた業なのか。
でも、わたしはこんな恋愛は送れなかった。羨ましいよ。ほんとうに腐臭がするのは、きっとわたしの方だ。