「今村夏子の『ピクニック』を読んでも…」花束みたいな恋をした Yushiさんの映画レビュー(感想・評価)
今村夏子の『ピクニック』を読んでも…
土曜日、『花束みたいな恋をした』を観てからというもの、麦と絹が僕の頭のなかに住み着いてしまっていた。それも、2人とも、前を向いているのではなく、未練を引きずった状態で住んでいた。望まなくして2人と生活を共にすることになった僕であったが、2人を見るたびに否応なくあの頃を思い出してしまう。思い出して、苦しくて、悲しくて、どうしようも無くなっていたので、木曜日、もう一度観て、レビューを書いて、2人には申し訳ないが僕の頭の中から出ていってもらおうかと思う。
この映画を観て1番悲しかったのは何かと聞かれれば、それはやはり麦が社会に揉まれていく様を見せつけられたことである。麦が読む本は小説からビジネス書になり、食べるものは手作りのパスタからコンビニのうどんになる。人間というのは、小学生から中学生、高校生と成長するにつれて、体内に取り込む食べ物や本などは自然と変化していく。それは、生きていくうえで、色々なことを経験し、知っていくことで視野が広まった結果であって、それは全く問題ない。何故なら、そこには感受性というセンサーが働くからである。そのセンサーが体内に取り込むものを自動的に取捨選択してくれる。今回、ポップカルチャーの好みが驚くほど同じであることが2人を繋いだ。それは、いってしまえば2人の体を構成する要素が同じであることとイコールである。遺伝子レベルでの繋がりを感じることができた2人は、俗な言い方をすれば「運命の人」であると互いを認識できたのだろう。
しかし、社会に出た麦には、果たしてセンサーが作動していたのだろうか。本屋で前田裕二の『人生の勝算』を手にさせたのは、スマホにパズドラをダウンロードさせたのは、近所のパン屋が潰れてしまったという絹のLINEに「駅前のパン屋で買えばいいじゃん」と返信させたのは、本当に麦のセンサーだったのだろうか。おそらく、「社会」に埋もれていった麦のセンサーは機能不全に陥ってしまったのだろう。機能不全に陥ったセンサーは、イラスト用の道具を机の端に追いやり、絹が麦に薦めた本を無造作に積み上げていく。かつて絹に圧迫面接をした面接官に対して、麦が言った「その人はきっと今村夏子の『ピクニック』読んでも何も感じない人なんだと思うよ」という台詞。時が経ち、麦の取引先のおじさんに対して、同じ台詞を絹が言ったときに、麦が「俺ももう感じないかもしれない」と口にしたのはあまりにも悲しい。
絹は、麦に本を薦めたり映画に無理やり連れていったりして麦のセンサーが正常に作動してくれるのを望んだ。しかし、その望みは虚しく打ち破られてしまう。本を薦めても麦は仕事の車の中にその本を放り投げてしまうし、映画を観させても麦は何だか退屈そうだ(映画を観終わった日の夜、麦は絹に「映画面白かったね」と、およそ機械的に言う。昔だったら、観た映画について何時間も語り合っていたはずだったのに…。ここも、僕が悲しいと感じたポイントの一つだ)。何をしてもセンサーはもとに戻らない。それが分かってしまったため、絹は麦と別れることを決意したのかもしれない。
麦のセンサーが壊れたまま2人が別れ、映画は終わってしまったのであれば、その映画を観た僕たちモラトリアム人間は、おそらく誰一人として「社会人」になることを望まないだろう。何故なら、彼らは観たあと、「社会人」になるということは、自分たちの精神の拠り所であったセンサーを壊すことである、とそれとなく理解するからである。しかし、そうでは無いのがこの映画の面白いところだ。別れることを決めた絹と麦は、「最後くらい楽しく」ということで、それはそれはまるで付き合いたて2人のように、楽しく、カラオケをし、缶ビールを飲みながら歩き、別れたあとは映画も観た。時間の経過もそれを助けたのだろうが、別れることを決めたことで、麦のセンサーが復旧したのである(このことは、最後のシーンで、麦が沢山の本が詰まった本棚の前で手作りパスタを食べ、ストリートビューをしていたことからも分かる)。これを理解できたのは2回目に観たときであったが、このとき初めて、僕の胸のなかにあったもやもやが、すーっと消えていくのを感じた。そうか、別れることで幸せになれたのか、と腑に落ちることができた。
長々と書いてきたが、今ふと頭の中を覗くと、そこに二人の姿は、無かった。…良かった。これで僕は生きていける。そんなことを思いながら、僕も絹のような女性と出会うことを夢見て、きのこ帝国の『クロノスタシス』を再生しつつ、映画の半券を挟んでおいた文庫本のページをめくるのであった。
二人が頭の中から出ていってくれて良かったです。胸が痛くなる素敵なレビューをありがとうございます。何歳になってもセンサーを機能させたいと私も思います。そしてそれは可能です。もう随分と生きてきましたから言えます。大丈夫。