「長回し映画。キュアロン作品との違い。『ダンケルク』との違い。」1917 命をかけた伝令 f(unction)さんの映画レビュー(感想・評価)
長回し映画。キュアロン作品との違い。『ダンケルク』との違い。
塹壕から出発し、塹壕に帰ってくる映画。
はじめ、主人公スコフィールドは任務に気乗りせず、同僚に引っ張られるようにして塹壕を進むだけだった。最後に1人で塹壕へ入ったときの彼は、自ら人混みを掻き分ける。そこに主体性が生まれている。(そして草原を走り回るとき、これまで怯えながら慎重に進んでいたのとは違った開放感が生まれる)
気乗りしないまま塹壕を出発した「スコ」。任務達成のモチベーションは、同僚の兄を救うことにあって、自分の兄ではない。ドイツ軍の陣地跡に入ってあやうく命を落としかけ、いよいよモチベーションを落とすが、同僚の死の間際にあって、彼を「運ぶ」ことにモチベーションを見出す。(つまり同僚の遺志を運ぶこと)
とはいえ気力がなくなった時に、都合よく友軍部隊が彼を運んでくれる。(けれども友軍部隊が泥にはまった時は馬力を見せる)
友軍部隊と別れたあとはスリリングな展開が待ち受けているが、ここでも力尽きた彼は、川によって流される。というよりも、やはり「運ばれる」。運ばれた先には、友軍部隊による故郷を忍ぶ歌が待ち受けている。(戦場で出会ったフランス人の女性と赤子。ここで擬似家族形成が示唆するのは、任務達成のみならず、生きて帰還することへのモチベーションの確認か。劇中ぼんやりと、スコの妻子の存在が示唆される)
引きずられるように出発
→いやいや進む
→同僚の死と落胆(モチベーションの確認①/主体性の獲得)
→車で運ばれる
→独立(スリリングな展開)
→擬似家族(モチベーションの確認②/守るものの確認)
→川に運ばれる(帰郷間近)
→塹壕を掻き分けて進む(主体性の完全な発揮)
→任務達成、帰郷
★★★
つねに主役にフォーカスし、走馬灯のように背景を「流す」ことによって、主人公が前に進む理由や動機の変化へと観客の考えが及ぶことを可能にした。
『ゼロ・グラビティ』『ローマ』『トゥモロー・ワールド』といった、キュアロン監督作品内における長回しは、物体の運動や、登場人物による行為を映し出すが、本作の長回しが目的としたのは主人公の内面を浮かび上がらせることだ。(と言っても彼が主人公であることの明確になるのは、上映開始から数十分が経過したのちのことであるが)
長回しというと、そこに映し出される映像の出来のよさ、完成度がもてはやされるが、この映画は、長回しによって、「そこにないもの」、そこには写されていないものーすなわち内面ーへと思考がおよぶことを可能とした。
キュアロン映画における長回しは、映像自体が目的だ。立派で正確な映像※1を完成させることに終始する。『1917』は長回しのその先にある、人物の心の動き、その変化を浮かび上がらせたのだ。
※1 『ゼロ・グラビティ』の宇宙ステーション崩壊シーンに見られるような、「現実にその出来事が発生したならば、まさにその通りに発生するであろう」映像。物理学的に正確な映像。
★★★
類似作は『ダンケルク』だが、今作は一貫して「連続的」であることによって、「分割」を標榜するノーラン作品とは別種の作品たり得た。
『ダンケルク』は、複数の事象を発生順に整理することを要求し、人物と人物とがいつどこで交わったのかを求めさせるパズル問題だ。劇場から、鑑賞者の脳内や、作品について語り合う場へと舞台を移すことによって映画が完結する。
一方『1917』は、映像に没入することによって完結する。劇場での117分間で完結するのだった。
どちらも好きだ。
★★★
P.S.
『サンセット』も見て欲しい。同じ長回し映画としては、『サンセット』のほうが、キュアロン映画よりも『1917』に近い。
P.S.その2
全編長回し一本取り(風の編集)といえば、最近だと『バードマン』が思い浮かぶ。『1917』が初めてでもないのだから、そこまで騒ぎ立てることでもないと思う。(普通の映画にだって、どうやって撮影したの?と知りたくなる演出はたくさんある。)今後、後続の映画は出現するのか、そして今作のように意図を持って長回しという編集形態を採用しているのかどうか、鑑賞者が「いいな」と思える長回しになっているかどうか、注目だ。