「全ての概念を捨て去った先に「多様性」は存在する」すばらしき世界 さのさんの映画レビュー(感想・評価)
全ての概念を捨て去った先に「多様性」は存在する
いきなり自分語りになってしまうが、私は物心ついた頃には既に「変わり者」と呼ばれていた。20年以上前の話である。個性を肯定する風潮などなく、その言葉は主に嘲りの意味で用いられた。
抑圧されることが日常であり、その経験から「ただ生きるのではなく善く生きる」ことを高校の倫理の授業で教わったその日から己の信条としている。
だから、鑑賞直後はタイトルの意味がわからなかった。
主人公の三上は強い信念を持つ男で、それははっきり「正義」と呼ぶに相応しく、本来は広く世間から賞賛されるべき人物である。しかし、彼は生まれ育った環境の影響から表現手段に乏しかった。暴力や大声以外の自己主張の方法を知らなかった。すると、善良な市民は当然彼を忌避する。三上の表面的な態度からでは彼の善良性を知るのは難しいだろうから、仕方のないことだ。
護りたいのに護れなかった人物から贈られた花を見つめながら独り静かに生涯を閉じた三上に、生への執着は感じられない。彼が求める「まともな人生」「普通の生活」は、正義感が強く情の深い彼にはあまりに理不尽が多かった。世話になった人々には絶対に迷惑をかけたくない。でも、そうするには己の信念を曲げ続けなければならない。なぜなら、穏便な表現手段を知らないから。
そんな彼の死を描いた直後によりによって「すばらしき世界」などというタイトルコールが映るのだから、こちらとしては納得がいかない。表現からしてどうやら皮肉ではないようだし、では一体誰の視点から「すばらしき」などと謳っているのだろう。しばらく考えた。
結論はこうだ。「世界には様々な人間が存在し、それぞれに受け入れ場所がある。それこそが〝すばらしい〟」。
鑑賞中は終始三上に感情移入し、彼が理不尽にぶつかっては憤りを覚えていたが、思えばそんな一見「悪」に見える者達にも彼らなりの信条は持っているはずなのだ。そして、彼らは自身を受け入れてくれる場所で身を寄せあいながら生きている。そこに三上との違いはない。
振り返れば、「居場所」の描写が多かったように思う。バカ騒ぎする若者が集うアパートの一室、極道の屋敷、チームワークを必要とする職場、後見人やかつての恋人の家庭など。素行の悪い者もいる。倫理観に欠ける行動を取る者もいる。しかし、それを「悪」と切り捨てては三上のような人間も生きやすくなる「多様性の受容」は実現しない。多様性とは「全」だからだ。
この結論に辿り着いた時、私は自身の未熟さを恥じた。そして、ただ広く青いだけの空に浮かんだタイトルコールに制作側から人間への温かな目線を感じた。同じ空の下、とはまさにこのことだ。
前述の通り三上に感情移入しまくっていたので印象深いシーンは数え切れないほどあるのだが、特筆するならば育った児童養護施設で三上がかつての職員と歌を口ずさむシーンを挙げたい。するりと幼少のみぎりに時が巻き戻る彼に、津乃田と同じく驚愕し、目を離すことができず、ただただ涙が溢れて止まらなかった。