劇場公開日 2020年1月17日

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私の知らないわたしの素顔のレビュー・感想・評価

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サイコロジカルサスペンス。”サイコ”の名が付いてまずヒッチコックの...

2020年1月12日
PCから投稿
鑑賞方法:試写会

サイコロジカルサスペンス。”サイコ”の名が付いてまずヒッチコックの映画を思い浮かべる人は多いはずだ。一人の人間の二重性、普段表に出ない裏の顔が明らかになる時、観客はそれまでのミスリードに気持ちよく足を掛けられ真相に心酔する。ヒッチコックの『サイコ』はまさにそれをぬけぬけとやってのけた作品だった。今や同作は一種の型となり、毎年類似するプロットや構造を持つ作品が生まれ続けている。『サイコ』の場合、真相に辿り着くまでの描写が様々な人物の主観を通じて成されていた。多角的視点が時に真相の断片を観客に提示し、時により難解な方向に導いていく…当時も今も充分衝撃的なラストがこれによって際立っていた。ただ逆の場合もある。ある特定の人物の主観のみで構成され、観客はその視点から見る”真実”を信用しきれないままに物語が続く。いわゆる”信用できない語り手”というやつだ。そして今作は、明らかな意図を持って作り上げられた後者の好例、もっと言えば傑作だった。

ジュリエット・ビノシュ演じる主人公・クレールがカウンセリングを受ける場面から物語は始まる。何かの薬を服用していること、何らかの理由によって療養所のような更生施設にいることが示され、彼女が主人公かつ信用できない語り手であることが手際良く説明される。ここでビノシュとニコール・ガルシア演じるカウンセラーが同一ショットに入り込まないことで、2人の距離感やガルシアの職務に対する姿勢を見ることができる。主人公の口ぶりから、もう既に起こった出来事が語られていく(因みに”信用できない~”の有名な例である『グレート・ギャツビー』の映画化『華麗なるギャツビー(2013)』も同様の構造だった。今作をギャツビーの見立てで見ると結末の解釈も変わるだろう)が、それらは最初生々しくも乾いて味気がない日常のように映る。主人公はあらゆる意味で成功した人物のはずだ。本を出版し、大学で教鞭をとり、遥かに歳下の若い恋人もいる。傍から見れば充実した生活=理想を生きているように見えるのだが、それはあくまでも我々観客が彼女の外側を観察しているからに過ぎない。恋人との関係が非常に無礼な態度をもって破綻を迎え、彼女はささやかでしかし倫理的にギリギリの行動に出る。SNSのニセアカウントで恋人の友人に近づき、彼の内情を探ろうとするのだ。最初はなんてことないただの出来心から来る行動でなんなら可愛ささえある(“インスタ”が何か分からなくて調べたり)。しかし手段に過ぎなかった相手とのチャットに執着し、手段が目的とすり変わったその瞬間、不気味な重低音とともに彼女は一線を超えてしまう。ここまでに至る彼女の主観=劇中の描写を見ていくと、あらゆる所に綻びと歪みがハッキリと浮かんで見えてくる(これは恐らく2回目見た時によりハッキリとするはずだ)。それら細かい描写が素晴らしい。細部に目を凝らせば凝らすほど、奇妙で不安を煽るものが見えてくる。今作を自分はより多くの方に見て頂きたいので詳細は書かないが、注目して欲しいのは”鏡”だ。あらゆる創作において、鏡は多重性を表す道具として用いられる。今作でも鏡そのものの他に鏡面となるあらゆる物が登場し、主人公の深層心理や分身の浮遊を映し出していく。恐らく細かいCG処理や撮影テクニックが施され計算し尽くされたカットだろう(明言は避けるが、息子との会話直後のガラス戸に注目して見て欲しい。自分の勘違いでなければ深淵からこちらを見返す視線を感じとれるはずだ)。これが同時に主人公が語る話の信用できなさ=現実か妄想か解らない多層性を持たせることにも繋がっているから無駄がないし上手い。
そしてそれら素晴らしい演出の積み重ねが見せる主人公の危うさ=怖さに一抹の同情と哀れみを感じさせるのが、今作終盤に明らかになるとある”事実”だ。これこそ今作の物語的白眉であり試写会でネタバレ禁止の厳命があった絶対に書けない部分なのだが、ジェイソン・ライトマン監督のとある作品にテイストが近いとだけ言っておこう。非常に個人的で小さな真実なのだが、それが今作の出来事の発端であり目的だったことが分かると、それまで彼女がした行動や言動の隅々に意味が生まれ、点と点が線で繋がる寒気に近い興奮(または快感)が走る。是非台詞の中の固有名詞に注意しながら見て頂きたい。脚本家ディアブロ・コディがティーンや現代の子供な大人について描いたことを、今作は中年の女性の視点でやっている。コディの脚本作がそうであるように、そこに生きている人物が実在感を持つからこそ哀れみと切実さ、それらと表裏一体の関係にある一種の狂気性が見えてくるのだ。
また今作は眼鏡についての演出も見事に取り入れている。劇中で主人公は常に眼鏡をかけている。これがまた単純にジュリエット・ビノシュの美しさにも繋がっているのだが、ある場面ではそれを外して姿を見せる(駅での場面。ここの車窓にも注目してみて欲しい。既に現実と妄想の多重性が綺麗に表現されている)。ここは遂に行動を起こし相手に会おうとするが…という非常に胸の苦しくなる結末を迎えるシーンだ。そしてこれが直後全く別の結末をもって語り直される。映画の第二幕、主人公がカウンセリングを通じ文学の教養を用いて自らの物語を描いて見せるその一連の場面で、さて彼女は眼鏡を掛けているのか?RHYMESTER宇多丸さんは『くもりときどきミートボール』評のなかでこんなことを言っている。

「眼鏡をかけた時がホントの私」

眼鏡をとった素顔が一番、的な世に蔓延る言説に対する回答(自分も激しく同意している)だが、今作はまさにそれを作劇に持ち込んでいる。物語上はどんでん返しとして後から観客に効いてくる第二幕なのだが、実は眼鏡に注目しているとその時点で鳥肌が立つ見事な種明かしになっているのだ。それにより逆説的に眼鏡をかけていない瞬間の信用度が下がり、彼女の主観の信頼性を落としているのも上手い。今作の見せ場と言って差支えないまさに体当たりな性描写も、その眼鏡と前述した鏡面演出で違和感を増し現実感を削いでいる(濡れ場に必ず鏡面があり、ジュリエット・ビノシュの顔が意図的に見えないようになっているのも作為を感じさせる)。
なので、是非眼鏡と目にも注目して見て欲しい(目から目へ繋がる編集の上手さ、主人公を観察しているはずのカウンセラーは…などなど)。

一人称サイコサスペンスは基本視点が主人公から離れない。しかし、第二幕とその直前に関しては視点の移行が効果的に使われる場面がある。具体的にはある二つの場面で主観が主人公から別の人物に移るのだ。一方はニコール・ガルシア演じるカウンセラー、もう一方は主人公の嘘に恋し恋される男アレックスで、逆にいうと該当の場面以外は常に主軸からは主人公・クレールがズレることがない。これもまた意図的な分かりやすい線路変更であり、前者はクレールとほぼ同じ立場としての(劇中台詞でも語られる)学びを、後者はサスペンス的”気づき”という外と内からの主人公批評になっている。知識も教養もある人物が欲に忠実に行動する愚かさであり弱さであり羨ましさ、行動した本人が自分を省みた時に出す至極真っ当で映画的な答え、二つが描かれて初めて今作は独自の立ち位置を手に入れたと言える。全てが終わり、周りの人間が新しい一歩を踏み出すなか彼女が出してしまうある結論。単に反省のない狂気への転落でも、反省と改善を経ての断絶でもない。反省したうえでなおも辞めることが出来ないという圧倒的現実味と、弱さ・依存という人間臭さ。今は過去となった瞬間・輝いていたあの頃を懐かしんだことのある人、もしくは映画やドラマなど現実にない世界に耽溺している人なら誰もが感じたことのある感覚が、画面外から浮上するある物体の意表を突く登場で明らかとなり、寒気・快感・納得…など数多ある感情を湧き上がらせる。非常に見事な幕切れであり割り切りの良さだ。

単純に一つの答えを出さず観客に最終的判断を委ねる間口の広さ、それに至るまでの描写と演出の多重な一貫性、撮影の美しさと音響コントロールの技術力、そしてジュリエット・ビノシュを代表とする脇まで上手さと寄る辺なさの行き届いた配役と演技が見事に合わさった、フランス製自己完結型サスペンスの傑作。興味をもったら何も情報を入れず直ぐに劇場へ。細部に宿る不気味さと、ジュリエット・ビノシュの変わらない美貌に浸かって下さい。

追記:
眼鏡のジュリエット・ビノシュがいいのは当たり前なのでもう書くのはやめるが、眼鏡のニコール・ガルシアについて。中盤主人公のテレフォンセックスについて聞かされた後、彼女はある質問をされるが答えずじまいとなっている。しかしよく見ていると映像でちゃんと答えているのだ。前述したように、映画前半で主人公とカウンセラーは同一ショットに収まらない。それがその質問がされる時には、さりげなく同じ画角に収まっている。つまり彼女は欲望という面において主人公に感化され始めているし、質問の答えは明らかに“イエス”なのだ。非常に上手い…。
また音の使い方も印象的。特にオープニングのギョッとするファーストカットから、無音と自然音が対比として用いられている。傍から拠り所となる人間がいなくなると音が消え、愛する人の眼の前やその人の事を考えていると自然音が周りを取り囲む。それを強化する水の描写も非常に記憶に残る。
劇中で主人公の授業という形で紹介される文学作品も示唆的で、『危険な関係』『人形の家』など、知らなくても説明がある為それらがどういった意味を作品に与えているかも分かりやすい。今作のテーマを理解する指針やヒントに出来るはずだ。
細かい小道具のデザインも素晴らしい。特にスマホ…今思えばあの絵は露骨な二面性の象徴だった。

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りょうた

3.0ずっと、「あ〜、世の中には、こういう人(SNSを利用して、成り済ま...

2020年1月9日
スマートフォンから投稿

ずっと、「あ〜、世の中には、こういう人(SNSを利用して、成り済ましをしてやり取りをしている人・妄想的な恋愛をしている人)は結構いそうだなあ。」と思いながら、特別面白味もないなあと思いながら客観的に眺めていたけれど、ラスト辺りからは、内容がコロコロして来て、多少の面白味は出てきた。
ただ、こういう主人公のような人って、かなりの病気だなあと思った。(最後に明かされるけれど、)病的になったきっかけは、まあともかくとして、、。
終わり方も、精神疾患的異常性が非常に現れていた。

気持ち悪い世界だ。

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ナガグツ

4.5これを観たら人間不信になってしまいそう…。

2019年12月23日
iPhoneアプリから投稿
鑑賞方法:試写会

泣ける

悲しい

怖い

恋は盲目…。
恋をすると周りが見えなくなると言うけれど、これはまさにそんな視野の狭い世界で起こったサスペンス。

正直な話、主人公の女性に共感する気持ちが1ミリも湧いてこなかったけど…。

もし、彼女のような境遇が起こったら、自身のメンタルは死んじゃう気がする…。
だから、同じ女性として共感できる部分が微かにあったのかもしれないけど。
諸手を挙げて拍手したくなるような気持ちにはなれませんでした。
ごめんなさい
(´°̥̥̥̥̥̥̥̥ω°̥̥̥̥̥̥̥̥`)

なにせ、ここに出てくる人全員が加害者だから許せなかった…。
みんな自分のことを棚に上げて、自分の保身のためだけに行動したり助言したりする姿が、観ていて腹立たしかった。

相手のことを思いやる気持ちが全然無いから、かわいそうと思う気持ち以上に、自業自得だなと思う気持ちが強くなってしまって、ため息ばかりが私を包んでいる感じで残念…。

でも、ラストの衝撃は『ゴーン・ガール』を再来とさせるものがありました。
男と女の愛憎が生んだ現実に打ちのめされた結末…。
フランス人らしさが滲み出ているような、でもフランス人でもここまで酷いことはしないのではないかと言いたくなる…。
そんな、複雑な心境ばかりが胸に残る、ゾワゾワしたラストでした。

主人公の女性を演じたビノシュさんを私は知らなかったのですが…。
彼女はこれまでどんな役も、その役が彼女に乗り移ったかのように完璧に演じてしまう役者さんとのこと。
そんな天才的な女優が演じたからこそ、その役は信憑性が高まったのだと思います。

そこらの大根役者が演じたら、すごくチープな世界に仕上がったかもしれませんと、今日のトークイベントでも映画評論家の方が言っていました。

SNSの罠を描いた今の時代を生々しく描いた映画。
ちょっとした見栄や嘘で自分を着飾りすぎると、後でとんでもないしっぺ返しがあるというのを教えられているかのようでした。

最後の最後に、スマホを片手に電話をしている彼女の姿が、この話はこれで終わりじゃないと言っているかのよう…。
ラストの解釈は様々とのことで、観る人によって委ねらるようですが、私は新たなる事件の幕開けとしか思えない…。
これは悲劇の始まりではないかと思いました。

是非他の人の意見も聞いてみたい所です。

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ガーコ

3.0怖いですねえ。

2019年12月7日
Androidアプリから投稿

なりすましSNS。恋する女はどんどん綺麗になっていく。

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t2law