「自分は自分でありたいという主張」ダンサー そして私たちは踊った Socialjusticeさんの映画レビュー(感想・評価)
自分は自分でありたいという主張
ジョージアの伝統的な男性のダンス(sukhishvili danceスフシヴィリダンス)は masculinity(qualities or attributes regarded as characteristic of men or boys.)を基本としていると主人公のダンスの先生(Kakha Gogidze)がいう。映画の最初に映し出されるアーカイブの伝統的なジョージアの男性の動きが、これを示唆していると思う。そして、先生がいうにはKintouri (キントウリ)と Adjarian Dance はもっと軽やかでソフトな踊りだと。私はジョー
ジアのダンスのスタイルにまず興味を持った。
検索したが、ここにYotubeを載せられない。
Sukhishvili Georgian National Ballet スフシヴィリダンス(公演に行ってみたいけど今年は東欧のみだね。)
キントウリ ダンス
アジャリアン ダンス
主人公のメラブ(レヴァン・ゲルバヒアニLevan Gelbakhiani
Georgian actor and dancer)の踊りには惚れ惚れした。 国のメトロポリタンダンスで欠員ができたためのオーディションに合格したかった。しかし運命は?
最後の踊りは伝統的な踊りとメラブの創作ダンスの融合で、これには振付師でもある先生も表情には出さないが感嘆??したようだった。このダンスの振り付けはイラクリに対する最後の愛情表現か、諦めの表現かは私にわからない。それに、最後のシーンをどう理解するかだが、私の考察ではメラブはこのスフシヴィリダンスの学校には戻らないと思う。自分の部屋にあるダンスのポスターを(宮崎駿のポスターを除いて)取ってしまったし、兄のデビットが助言したように、トビリシを出ると思う。それに、メラブの最後の中性的なダンスは、彼にとってのジョージアの伝統社会(例えば、男と女の世界だけで、ゲイは罪であり仕事も干される・アルメニア人はここでは踊れない?など)や男性を象徴するスフシヴィリダンス(ディレクターのいう国の精神)に対する抵抗であり、自分は自分でありたいという主張でもあるようだ。
私は図書館の配信でこの映画を見たが、Youtubeで無料で観られるようだ。
トビリシに住んで、レストランで働きながら伝統的ダンスをNational Georgian Ensembleで習っているメラブが主人公である。父親も母親もUKロイヤル・アルバート・ホールの舞台でジョージアのダンスを披露したことのある有名なダンサーのようだが、特に父親は自分のように終わりたいかとメラブのダンスにかける情熱を否定している。
私は主人公、メラブのイラクリに対する(Bachi Valishvili)精神・肉体的にも一途な恋が好きだ。これが真に人を好きになった時の行動であり、態度であると思う。それに反して、イラクリのBatumiバトゥミに住んでいる母親思いからくる態度か?そして、ガールフレンドと婚約したと。この引き際はあまりじゃないかと思わせるが、ダンスを諦めたり、女性との結婚は現実のジョージア社会を見据えっていると思う。しかし、映画で二人が別れる時のイラクリの表情がよく読み取れなかった。だから、どんな気持ちで、別れを言い出したのかもわからなかった。
一番好きなシーンは兄デビットの弟メラブに対する兄弟愛だ。彼がゲイであると言われることに対して「弟の名誉」のための喧嘩をした。弟は兄よりできると父親に言われて育ったが弟に対して嫉妬はしていないと。でも、ジョージアには将来がないから、国を出るようにと。メラブは頷いた。