はるヲうるひとのレビュー・感想・評価
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鼻くそに愛はある…
伊勢志摩サミットが開催される際には無くなったとされる三重県の売春島渡鹿野島をイメージしたと思われる。簡単には抜け出せない、行くあてもない島の置屋の女たちと使用人、取り仕切る男の物語。女たちも若くて綺麗とは描かず、生々しく、生活感があり、かなりリアル。使用人である山田孝之の手の絆創膏や爪の垢も真っ黒で、かなりリアル。置屋を取り仕切る佐藤二朗は女たちを真っ当以下、鼻くそと見下しながら、何食わぬ顔で女に奉仕させ、暴力で支配する極悪非道、下劣な男を演じている。島には売春以外、産業や何の観光資源もない中で、原発反対をし、政府から金を貰おうと駆け引きする島民たちも描かれている。抜け出したくても抜け出せない、真っ当に生きることができない、何者にもなれないという絶望感の中でもただひたすら生きるために生活していく、ラストも、何か解決したわけではないが、普通に明日は来て、生活は続いていくという終わり方に感じる。客であるミャンマー人の一言がかなり笑えて、要所要所のツボ、佐藤二朗らしい演出だと思う。
佐藤二朗は友達が多いのですね‼️❓
なんか、重いテーマを扱う割には、アホなんですね、佐藤二朗。
ただ、友情出演多いのかな、演技が意外と良いのです。
ストーリーはスカです、議論の余地無し、脚本もスカです、議論の余地無し。
でもね、観ない訳にはいかんのだよ、見過ごすわけには、見届けて貶してあげます。
内容にコメントする価値の無い映画ですが、演技は良いですよ。
演出の無い、剥き身の演技を観れますよ。
演技だけを鑑賞したいなら、是非。
久しぶりにいい時間
佐藤二朗さんの印象ががらりと変わる、
とてもよい映画でした。
ひとつひとつのつくり込みがとても丁寧で、
お芝居原作と聞いて納得しました。
メイクや服、観客の想像に任せるシーン、
そして何より誰一人欠けては成立しない、
役者たちの演技と言ってよいのか、
ドキュメンタリーのような芝居。
内容は重たいのですが、
最後は救いがあって泣けます。
熱量のある芝居は引きこまれますね。
仲里依紗さんの映画、もっと見たくなりました。
監督が反対されたけど削りたくないって言ってたのは
〇〇反対のシーンだろうか。
だとしたら入れて正解でしたね。
あちらにはちょっと批判喰らうかもしれないけど…
佐藤二朗監督はじめ、キャスト、スタッフのみなさんこの作品を作ってくださり
ありがとうございました。
舞台が原作ときいて納得
Netflixで鑑賞。終盤ちょっと意外な展開で、面白かったです。
セリフ回しや演出に「佐藤二郎さんぽいわ〜!」が随所に見られ、監督の個性がしっかりと表現されている作品だと思いました。
監督が伝えたかったこと、この作品のメッセージについては、キャラクターが全てセリフで説明してくれるので、私はかなりわかりやすい作品だと思います。
原作は舞台なんですね。たしかに今思えば、所々セリフの言い回しが現実から少し浮いていたり、幼少期の自分が目の前に現れる唐突な演出、最後の幕の閉じ方も、正に舞台を映画化した、という感じでした。
映像を観れば、セリフを聞けば、やろうとしたこと、やりたかったことは伝わってくるのですが、なぜかあまりピンとは来ません。
長女・いぶきは言動や存在が抽象的、次男・得太も口数が少なく、長男・哲雄はミステリアス。脇役のキャラはしっかり立っているのに、主役である三兄妹の本質が見えづらい点が、物語をフワフワした印象にさせてしまっているのかなと思いました。
逆にかげろうの客人ユウのキャラはかなり立っていて、後半はユウによって物語が進んでいくのも少し勿体ないと感じました。
一番好きなキャラはりりです。女優の笹野鈴々音さん、ホラー作品でしか知らなかったのですが、あんなに可愛らしいお方だったとは…!俳優さん達の演技は流石でしたね。生々しい雰囲気がとても良かったです。
ハナクソ
勇者ヨシヒコシリーズのホトケ(佐藤二郎さん)とヨシヒコ(山田孝之さん)がシリアスな映画?しかも監督がホトケ!?ってだけで、ヨシヒコファンの私は、これは観たい!と思いまして。
あらすじ、予告をみてみると、確かにヘビーな雰囲気漂ってました。
正直、観る前の先入観としては、「救いのない現実のなか、それでも上を向いて生きよう!」
みたいなメッセージ色の強い映画をギャップ狙いで作ったのかな?と勝手に想像していました。
しかし、観始めからラストまで、とくに明確なテーマのようなものが見当たらない。
ストーリーも至ってシンプルでありどちらかというと地味。
なのに、胸が震えました。
結局のところ監督が表現したかったのは、物語としての感動じゃあなく、なんでかわからんけど心がザワザワして涙が出てくるようなこの「感覚」に尽きるんじゃないかなと思いました。
佐藤二郎さん最後のセリフ「俺も、お前達も、みんなハナクソだ」に集約されているんじゃないかなと。
いかにわかりやすく視聴者を感動させるか、笑わせるか、そんな映画も嫌いではないけど、
自分の表現したいことを飄々と描ききったこの映画が大好きです。
あと、山田孝之さんあらためて物凄い役者さんだなと思いました。
だから何?
おそらく、売春島と呼ばれた伊勢の渡鹿野島をモチーフにしたのだろう。
このストーリーを観て、共感出来るもの、何も響いてこない。
主演の佐藤二朗さんが監督、脚本、原作をこなしたという元々個性的な人だけに、期待感は自然に湧いてくる。
ただただ暗い。
まぁ、そういう映画なのだ。
哲雄は、ハナクソだ!自分の元で働く女性たちを見下し、腹違いの弟と...
哲雄は、ハナクソだ!自分の元で働く女性たちを見下し、腹違いの弟と妹もクズ扱いし、偉そうに振る舞うが、哲雄の方がよほどクズだし、お前の方がハナクソだー!と観ていて腹が立つほど嫌なヤツ。見下していた弟の得太が初めて打ち明けた父母達の死の真相を知ってショックを受けたようだが、少しは大人しくなるのかな?
得太は何故、あんな兄のそばにいるのか、島を出ればいいのに。
山田孝之が上手いことは勿論言うまでもないが、佐藤二朗が面白い役も出来れば、こんな嫌なヤツも出来る、監督や演出もやってしまう、振れ幅広いなあ。
こういう気持ちになった人にしかわからない
佐藤二郎さんが監督で、主演は山田孝之さん。今まで色々な映画や舞台で共演してきた二人のコメディではない作品を見るのは初めてな気がしましたが、とっても良かったです。
佐藤二郎さんは「良い俳優の良い演技が見たいからこの作品を作った」との記事を読みました。納得の結果だと感じました。
山田孝之さん演じる得太は絶対的な存在の兄に抑圧されながらも純粋です、しかし時に抱え込んだ秘密により押しつぶされそうになっています。そんな演技が素晴らしかった。
この映画は、愛とはなんだを追い求めたり、どんな状況でも精一杯生きていこうといったメッセージはあるのかもしれませんが、そういうことじゃないんです。
日本のどこかにはこんな島があった。また、こういう島のような状況は今でもどこかである。それを全部素晴らしく演技してくれた。
何も言えない人たちの代わりに演技してくれた。多くの得太のような状況の人は何もできません。峯のような女性もそうです。劇的に変わる未来、シンデレラストーリーはありません。だからこそ、そんな人たちの代わりに素晴らしい演技をしてくれた。スポットを当ててくれた。そんな映画でした。
是非観て見てほしいです。
噛みあってない 全てが。
作り手、演者、観る人(私) 何がダメなのかすらわからないが こんな意味不明でシンクロできない映画も珍しい。 一生懸命な役者が気の毒。 あと山田孝之の活舌が気になる 字幕お願いします。
暗い。
佐藤二郎っぽくないところを推したいのだろうけれど、なんだかタブーを並べただけの作品って感じで、終始気持ちが悪いと言うか。わざと気持ちが悪い要素をこれでもかと言わんばかりに詰め込んだと言うか。なんかわざと陰湿にしてる感じがして好ましくなかった。取り囲む娼婦たちはキャストとてしてとても良かった。是非とも副音声などで佐藤二郎の解説をしてほしい。それぞれのシーンや展開で何を言わんとしているのかが知りたい。すみません、私には見ただけでは伝わらなかったです。
「は〜〜?ヲうる人」
佐藤二朗と山田孝之の映画。
に、仲里依紗がゲスト出演的なものかなという印象を持ってしまいかねない残念さかな。
まず、舞台の映画化ということで、映画化するならそこで切り捨ててもいい演出があったこと、そして他の俳優陣が、この映画全体の中で占める「意味」がわからなかったこと。これに尽きる。
もし、映画化するなら、先の3人と坂井真紀を加えた「ドッグヴィル」的演出ならそれなりに面白かったかも。
どうも「映画とは何ぞや」ってイキってみたらこうなった・・・という感じであった。・・・疲れた。
某島のことを映画にしたのかな、と。いまは廃れたと聞くけど。
ぼそぼそと話をするところと、大声で話をするところ。静と動のような感じにしたいんだろうけど、山田孝之の演技が大げさすぎて引く。佐藤二朗さんに悪役のイメージがなさ過ぎて、演技と役柄にギャップを感じる。
・・・もっと悪役でひどいシーンを見すぎているせいかもしれないけど。それこそ山田孝之の演じている「ウシジマくん」とか。「悪の教典」とか。いや、グロいシーンを観たい、という意味ではなく。
結末がちゃんとあって良かった。ただ、映画にするほどの内容だったのか。
なんだこりゃ
佐藤二朗が原作、脚本、監督を担当し、出演もしている。
著名人にたいしてがっかりしたと言う人がいるが、いみがないと思う。が、がっかりした。佐藤二朗の笑いにはツボる。だから、なんとなく洒脱なものも期待して見たのだった。ぜんぜん違った。ただのザ日本映画だった。
離島の娼宿が舞台。古色蒼然たる日活ロマンポルノ。Abused Woman、紋切りの愁嘆場、海辺で叫ぶ。死ぬほどダサい映画だった。0点。
(こんなつまんないこと考えてる人だったんだ──とがっかりしたけれど、わたしの趣味嗜好とちがっていた──ってだけ。好評もあるので、なんの問題もなし。誰に対してもいたくもかゆくもない話。)
この国では、特定の感性・方向性を持った人しか映画人(監督や俳優や脚本家)にならない。
なんていうか映画人になるひとの視野・センス・感性・向いてる方向などなどが観衆とことごとく乖離している。海外の映画を好きなひとは、日本では映画業界に入らない。でなければ(他国の映画をぜんぜん見ていないような)ザ日本映画は生まれるはずがない。
カメ止めに日本中が熱狂した。その理由はカメ止めがザ日本映画=(荒井晴彦みたいなやつ)じゃなかったから。
ネットフリックスのトップ10に日本製の映画ドラマがありますか?→そこに登るのはアニメと韓国製ドラマだけです。
映画業界は、そのことをぜんぜんわかっていない。わかっていないというか、その現象を認識できる素養がない。良くも悪くもそういう感性の人が集まるので。おそらく日本映画界は日本映画が衰退しているとさえ思っていない。重鎮の体面もあるしね。
以下は謂わば汎用な映画レビューで、この作品に限ったことではないが、本作のような典型的なザ日本映画を見たときに共通して感じること。(うまく言い得ているかどうか、わからないが。)
──
国ガチャで日本に生まれこの惑星で治安の良さでベスト10にはいる環境に住んでいる。時事ニュースに骨髄反応し犯罪が増えたとわめいている情弱なひとたちが一定数いるが日本の犯罪発生件数は減っていて、減り続けている。刑法犯認知件数──等で検索すれば3秒でわかる。
日本で生きることが楽勝だなんてぜんぜん言ってないし思わない。生きるのは苦しいことばかり。だが、国家間相対として、多くの日本人は平和な日常を過ごしている。と言える。
政策による瑕疵はある──が、すくなくとも戦争による攻撃や迫害、独裁や共産による搾取、破綻した治安の恐怖、宗教弾圧、テロリストなどを被ることなく生きている。
あなたは他国への亡命を希望していますか?
夜中にコンビニ行っても大丈夫だよね?
──わたしたちはまちがいなく平和な国に暮らしている。
すると、どういう現象がおこるか──「4人のヨークシャー男」現象がおこる。
(4人のヨークシャー男とはひとりが不幸話をはじめたところ、次に話した者が「おれのほうがもっと不幸だった」と言い、次の者はもっと不幸だったと言い──競争心を燃やしてえんえんに過剰化していくモンティパイソンのスケッチ)
ようするに不幸自慢がはじまる。ギラギラ度(過酷な体験)の披瀝自慢とも言える。
じっさい彼/彼女が、どれだけ不幸で、どれだけ壮絶な人生を生きてきたのかはわからない。だけど、彼/彼女が「不幸だったんだ・壮絶だったんだ」と自慢している以上「たいへんでしたね」と頭を垂れるほかない。
火のないところに煙はたたない──と言うが、平和な国において、不幸・悲しい出来事・凄惨な体験・闘争や暴力を語る。
──それがザ日本映画。
(「ザ日本映画」にはテレビ出身者の映画は含まれない。(さいきんで言うと)マスカレードや罪の声や祈りの幕をつくった人たち(活動拠点がテレビの監督、プロダクトスタンスとしての映画製作)に文句はありません。)
ところで、ヨークシャー男たちは、なぜ不幸自慢をすると思いますか?──とうぜん他者よりも優位に立ちたいからです。
俺のほうが過酷な人生を生き延びてきたんだぞ──のエクスキューズで「おれはスゲえんだぞ」って他者を威嚇したいからです。ザ日本映画のスタンスがそれ。
大多数の日本人は衛生無害なリヴィングキッチンのような日常を過ごしている。繰り返しことわっておくが、平和な国であっても生きることは胸苦しい。とうぜん、幸不幸の格差もあるだろう。ただ、国家が平和である以上「わたしは不幸なんです」と言ったばあい、設定に無理が生じる。ことがある。
とある日本の記者は「それでも私は権力と戦う」を標榜し、じぶんのことを悪政とたたかう戦士だと信じていた。彼女がなしえた「戦い」は時の官房長官に23回連続質問したこと。彼女のホラ話をもとに映画がつくられ、彼女の戦いをつづったドキュメンタリー映画もつくられた。・・・。
本年(2021)のノーベル平和賞をごぞんじだと思う。
『ことしノーベル平和賞に選ばれたのは、2人のジャーナリスト。ロシアの新聞「ノーバヤ・ガゼータ」のドミトリー・ムラートフ編集長(59)とフィリピンのインターネットメディア「ラップラー」のマリア・レッサ代表(58)です。政治家でも国際組織のトップでもない、ジャーナリストたちになぜ平和賞が贈られたのか?
そのヒントとなるのがロシアとフィリピンの「報道の自由度」ランキングです。
1位 ノルウェー、67位 日本、138位 フィリピン、150位 ロシア、177位 中国、179位 北朝鮮 (「国境なき記者団」まとめ)
そこにはそれぞれの国の「報道の自由」をめぐる、壮絶な闘いの日々がありました。
(モスクワ支局記者 禰津博人 マニラ支局記者 山口雅史)』
(NHKのウェブサイトより)
わたしは映画「新聞記者」のレビューにこう書いた。
『わたしはヴェロニカゲリンやエドワードスノーデンやメリーコルヴィンが「それでもわたしは──」と言うなら信じられる。その活動に、死のように大きな代償が隣接しているとき、発言は壮語にならない。しかし、この記者は、この平和な国で、いったいどんな対価を払って「それでもわたしは」と述べているのだろうか──という素朴な疑問を感じずにはいられない。』
ムラートフ氏のまわりではじっさいに6人のジャーナリスト仲間が暗殺されている。信じられますか。暗殺だよ暗殺!
ロシアじゃ反政府したら殺されちまうんだよ。よかったねえ、やさしい国に生まれて。あなたはあなたの「戦う記者」のブランディングをたすけてくれた政府に感謝しなきゃいけない。感謝できないのなら、プーチンに23回連続質問すべきだ。
日本で「表現の自由」と言うと、うさんくさいだけが、ふたり(ムラートフ氏とレッサ氏)の授賞理由「表現の自由を守るため勇気を出して戦ってきたからだ」は、信じられる。生きるか死ぬか──ならば疑いの余地がない。
(たとえば)表現の不自由展は、生きるか死ぬか──だったろうか。あのたわごとにどんないみがあっただろうか。
毎年恒例──ことしもハルキストたちの期待があったが別の人物が(文学賞を)受賞した。まいどながら、低回したりなんとなくセックスしたりする男のはなしがノーベル賞をとれるとは思わない。
これらのノーベル賞の報道から、ひるがえって、じぶんが住んでいる平和な日本を、かえりみた。
そして平和ならば強がって不幸のふりをするのはやめませんか──とザ日本映画に対して(あらためて)思った。
妄想がつくりあげた不幸を作品にしてしまうと、世界の本物の不幸とくらべたとき、恥ずかしくなってしまう。それを見た観衆も恥ずかしくなってしまう。
日本映画が恥ずかしいのは据わっていない空想の不幸ばかり描いているから。不幸がないならば不幸を描かなくていい。
たとえば、たとえばだが、ハルキストが大好きな作家に多大な影響をあたえたサリンジャーはじっさいに前線に参加している。
『1942年、太平洋戦争の勃発を機に自ら志願して陸軍へ入隊する。2年間の駐屯地での訓練を経て1944年3月イギリスに派遣され、6月にノルマンディー上陸作戦に一兵士として参加し、激戦地の一つユタ・ビーチに上陸する。(中略)その後の激しい戦闘によって精神的に追い込まれていき、ドイツ降伏後は神経衰弱と診断され、ニュルンベルクの陸軍総合病院に入院する。』(ウィキペディア、J・D・サリンジャーより)
過酷な体験をしている世界や人と平和なじぶんを比べる必要はない。
ただし。しかし。平和なのであれば体験していない不幸を体験したように語ってはいけない。バイオレンスしたくても(ホラー等でないなら)バイオレンスに一定の根拠が必要。悲しみが作り話ならば技量が必要。映画ははたんに技量と物量の産物。つくりての自我よりも、大衆の見たいものに寄せているものを大衆は見たい。
うまく言い得たかわからないが、なせだれひとり楽しいことを映画にしないのか、できないのか?楽しいだけじゃ映画にならない──んなことはわかる、だけど(まいにち平和と安寧を享受しているにもかかわらず)なぜみんながみんな不幸・深刻ぶって、なんかすげえ問題かかえていそうなフリをしているのですか?「ザ日本映画」。
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