「怪物は誰だ」プリズン・サークル Kさんの映画レビュー(感想・評価)
怪物は誰だ
日々ニュースで報じられる犯罪。残忍で、不合理で、利己的としか思えない事件を犯した人間は、まったく理解不能な「怪物」という印象を受ける。
実際、本作に登場する若い受刑者たちも、当初は必ずしも罪の意識を感じてはいない。怪我をさせたのは気の毒に思うが、窃盗は取られる方が悪いのだと。
しかし、TCユニットと呼ばれる少人数の受刑者たちが、輪になってお互いのマイストーリーを分かち合う過程で、彼らは少しずつ子どもの頃の体験や、その時の感情を取り戻していく。
母親に遊んでもらう時間がほしくて、小学校に上がる前から夜の仕事に出掛ける母のために、自発的に家事をこなす少年。しかし母親は疲れてそのまま寝てしまう。
父親が4回も変わり、母親が父親にしか夕飯を作らないため、食事は給食のお昼だけ。友だちからもいじめられ、飼っていた黒猫だけが心の支えの少年。その猫も両親が離婚する際、黙って捨てられてしまう。
家事の不手際のため継父に暴行され、家を追い出され週に一度はベンチで寝る少年。そしてほどなく施設に送られ、施設でも年長者から逃げ場のないいじめを受けている。夢は、一度でいいから誰かに優しく抱きしめてもらうこと。
途中から、私は頭がグラグラしてきた。自分が見ているストーリーは加害者のそれなのか、それとも被害者か?
「私たちが死んだふりをするのは、そうしないと生き延びられなかったからだ」という支援スタッフの言葉が胸に刺さる。身近な「怪物」によってズタズタにされた子どもたちは、心を麻痺させ、自分を「殺す」しかサバイブする術がなかった。
大人たちは、フィクションである『ジョーカー』の不幸と復讐には共感の涙を流し喝采を贈る一方、「リアル・ジョーカー」の受刑者たちは自己責任と甘えの論理で突き放してしまう。その姿勢ははたしてフェアなのか。
私たちがしばしば加害者を「壁の向こうの住人」と思いたがるのは、その方が自分とは違う世界の人間の所業と割り切れ、同情心も湧かずラクだからだ。
しかし、一度でも彼らの手当てされることのなく腫れあがった生傷を見てしまうと、彼らが自分とまったく同じ世界の「隣人」であることに気付いてしまう。
何より、彼らこそが「怪物」とその幻影によって苦しめられてきた「被害者」であり、真っ先に手が差し伸べられるべき存在であると分かる。
そして私たち大人が、ひとたび社会から孤立してしまえば、いつでも自分自身が「怪物」そのものになりうることも。