「私は私のなかにゴミを受け入れて、ちゃんとバランスとって生きてんだから。」タイトル、拒絶 栗太郎さんの映画レビュー(感想・評価)
私は私のなかにゴミを受け入れて、ちゃんとバランスとって生きてんだから。
半端ねえな、この映画。女優陣の本気度が高すぎる。"底辺"の人間の鬱屈したエネルギーが沸々とたぎっている。それはデリヘルに身を落とした彼女たちだけじゃなく、伊藤沙莉演じるスタッフ・カノウの「私は、カチカチ山のタヌキです。ウサギじゃなくてタヌキ。」と自嘲する台詞にも表れている。そもそも伊藤目当てでこの映画を観た。「ホテルローヤル」の中の伊藤もその役割を見事に演じ、存在感抜群だったが、メジャー作品よりはこちらのほうが彼女の味が出ると期待したからだ。はたして、その期待以上のパッションはあったし、この役は現状、彼女こそ適役であろうと思えた。
しかし、もっとも目を引いたのは恒松演じるマヒルだった。小さい頃から容姿を武器にした生き方を身に着け、笑顔で男を手玉にし、今も器用に生きている。いや、生きているように、見える。その笑顔は、つくられた笑顔だ。(そう思わせるのだから恒松は演技巧者なのだが)。それは仮面で、自分を守る盾で、金を稼ぐ道具なのだ。自分は「ゴミ箱」だと言い切り、感情をフラットにして仕事に徹し、他の女の子とも阿らない。それはけして彼女の矜持からくる行動ではなく、そうでもしてないと何かの拍子にぶっ壊れてしまうからなんじゃないか?と思えた。彼女は自分を社会不適合者だと自覚していながら、それでも自分は社会のなかでしっかり役割を果たしてきたことを知っている。セックスワーカー(労働者)として。だから、労働にはそれなりの対価を要求するのは当然のことだ。使い捨てられちゃたまらない。そう、点かなくなったライターのようにポイ捨てされたくはない。点かなくなったって、東京を燃やすくらいの熱量はまだ体の中に仕舞っているよといわんばかりに。だから、彼女が屋上で何をするのか、声を殺して見入った。そして、ああ、そうするのか、と見届けたときに、彼女が生身の人間に見えた。
「私の人生に、タイトルなんて必要ないんでしょうか?」とカノウは言う。タイトルなんてなくたっていいよ、別に要らんよ、と僕は思う。だけどそれぞれの人生の主役は自分なのだ、とは言ってあげたい。そう、平日の昼間に1人で映画を観ているような社会不適合者である僕自身に向けても。