「非現実は現実の対極ではなく、その一部としてある」脳天パラダイス 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
非現実は現実の対極ではなく、その一部としてある
『てなもんやコネクション』『アトランタ・ブギ』といった多国籍カオスコメディを数多く手がけてきた山本政志。本作もまたご多聞に漏れず地球上に存在するあらゆる要素が無秩序に入り乱れる。
父・修次の破産によって自宅を手放さねばならなくなったあかねは、開き直ってホームパーティー開催の案内をTwitterに投稿する。投稿はみるみるうちに拡散され、引っ越し直前の笹塚家に見ず知らずの人々が次々殺到する。浮浪者、ゲイの外国人カップル、バカ大学生、日本一周中の若者、ヤク中、台湾未亡人とその息子、テキ屋、ヒッピー崩れ、亡霊、ダンサー、誰が誰だかようわからんグループ、その他諸々。
修次はあまりの急な出来事にあかねを糾弾するが、もはやカオスの波濤を誰一人止められない。自宅の一角はドトールやラブホテルと化し、庭先には盆踊りの櫓と縁日露店が立ち並ぶ。血と汗と薬物が宙を舞い、レイヴと結婚式が同時並行的に執り行われる。あらゆる要素がサラダボウル的に入り混じることで、正誤や善悪、あまつさえ生死や時空の二項対立さえもが完全に瓦解し、快楽だけが全てに先行するドラッギーな超常空間が出現する。
とはいえ山本政志もベテランの映画監督。カオスが組織されていく過程の描き方も非常に丁寧だ。公園で遊んでいた子供が木の枝に変わってしまったあたりから徐々に現実にヒビが入っていき、ホームパーティーの参加者の増加とともに非現実的描写が増えていくという構成のおかげで、置いてけぼりを食らうような感じはしなかった。
やがて夜は明け、朝日とともに現実が再び笹谷家を満たしていく。あたかもそこにいた全員が共同幻想に浸っていたかのような呆気のなさ。しかし戻ってきた現実は昨日のそれと地続きではない。そこかしこに昨晩の熱狂の残り香が物理的痕跡として残されている。
山本政志作品の妙味はここにある。村上春樹をもじるなら「非現実は現実の対極ではなく、その一部としてある」。
彼はものごとの間に線を引かない。国籍、年齢、文化、経済状況、何もかも。万物が同じ位相状にばら撒かれるがゆえに混沌が生じる。しかしそうなってしまうことを危惧するどころか、むしろ積極的にカオスへと漸近していくのが山本政志だ。
それは、言語という「分割」を基本的機能とするコードに支配されたこの世界に対するある意味で最もスマートでラディカルな反逆であるといえる。