リンドグレーンのレビュー・感想・評価
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「長くつ下のピッピ」や「ロッタちゃん」
「長くつ下のピッピ」や「ロッタちゃん」の原作者、アストリッド・リンドグレーン女史の若気の至りを描く。
地方新聞でバイト、発行者と不倫、子供が出来てしまう。
姦通罪の恐怖から、隣国デンマークで出産するが・・・。
みんな子供のために。
感性
リンドグレーン作品集 1 長くつ下のピッピ 岩波書店 1964 のち岩波少年文庫、大塚 勇三によってはじめて翻訳がでた。(Google での検索が間違っていなければ)。1964年だから、私は中学生だ。でも、この作家をしらなかったし、リンドグレーンの本を一冊も読んだことがなかった。自分の過去を紐といってみてるが、一向に記憶のない児童作家だ。でも世界で5本の指に入るらしい。
私は、農村地域の文学家庭に育ち、小学生からの楽しみは父が借りてきてくれる文学全集で、特に、世界文学全集だった。アンクルートムの小屋、ジェンエアー、嵐が丘などかなりの(子供のためにかえられた文学)本を読んで育った。それなのに、なぜリンドレーンを知らないのか?不思議でならなかったので、娘に聞いたら、彼女は『長くつ下のピッピ』を知っていると。??? そして、『長くつ下のピッピ』をYouTube でみたら、児童文学の子供の夢や理想より現実化したユニークな作品なんだと感じた。
『気性が激しく』『Spontaneous自発的な』『パワーフル』リンドグレーンを描写するとしたら、この3つが当てはまると思う。芸術家の特性を持ち合わせているような気がする。3年間である、16−19歳の彼女の生活で、彼女の将来を予測することができる。
千九百二十三年のスエーデンを知れば、もっと彼女がモダンガール(髪をきったり、仕事をしたり)だとわかるかも知れない。ヴィンメルビューで、育ち、大家族に恵まれ、自然の中で感性を磨き、母親の厳格さ、でも、父親は伴侶とアストリッド狭間でも、愛情を娘に注いでいるのがわかった。特に種芋を空に投げで、子供たちと遊ぶところなどは、アストリッドの感性と共通すると思った。 1923年に16歳。この年は日本では関東大震災の年。スエーデンの社会背景はよく知らないが、彼女の宗教、男女、などの考えは、その当時の封建思想からかなり遺脱していると思う。映画では日曜教会の出席者も多く、これでは男、女の服装からして、現在のモルモン教にように、女性は長いスカートを履き、男女共に正装をしている。もちろん、不倫なんて最悪。これをやってのけるアストリッドの感覚は宗教や道徳違反というより、思ったことは/感じたことは全て実行に移すという挑戦心に見える。
スエーデンは性的同意年齢が15歳なので、新聞社の彼はそれを児童性愛ではなく、姦通の罪だけで、金を払って、刑務所に行かずにすんだが。この件を彼に対する怒りに変えていくところが前後左右考えずに思うがままに突進するというユニークさだ。封建的で宗教に縛られ現状維持の社会の中好き勝手に生きていく。好き勝手に生きていくように見えても、周りの恩恵をこんなに受けている。はっきりいって神の恵みを受けているんだなあと思って映画を見終わった。
最後に雇用主のリンドグレーンと1932年に結婚するわけだが。
これはウィッキペヂィアからで信憑性にかけているかもしれないが雇用主のリンドグレーンは当時既婚者であったが妻の元を去って彼女と結婚したと.
【アストリッド・リンドグレーンの児童文学が長く長く子供たちに愛される理由。】
冒頭、老いたアストリッドの後ろ姿を映しながら流れる男の子の声
”何で、お婆さんなのに僕たちこどもの気持ちが分かるの?”
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アストリッドは18歳。両親は熱心なキリスト教徒で、躾に厳しい。
が彼らが、子供達に注ぐ愛の深い事が、冒頭の数シーン、特に家族で囲む食事風景を見れば分かる。
だが、アストリッドが街の新聞屋に文才を認められ、彼のもとで働く事になる。おさげ髪を切り(母親の言葉:地獄への片道切符、その後の展開を見ると言い得て妙である。)、今風のスタイルを身に纏うアストリッド。
今作で秀逸なのは、要所要所で挟み込まれる男の子の”アストリッドの本”を読んだ素直な感想の流し方である。
彼女は、親の深い愛の中で育てられながら、様々な”辛い”経験をし、”自分の子供とともに過ごす”今しかない時間”の大切さを知る。
その想い及び子供たちに気付いて欲しい事を”長くつ下のピッピ”シリーズ、”やかまし村の子どもたちシリーズ”に込めたからだ、と私は思う。
後の夫となるリンドグレーンもさり気無く”良い人”として登場するし、何より彼女が子供を連れて帰郷する場面、家族で教会で祈りを捧げる場面は沁みる。
<物語も勿論素晴らしいのだが、
今作で初めて観た”アルバ・アウグスト”の16歳から、19歳で出産した子を養子に出し、(養母マリーが又、良い。)再び引き取って一緒に暮らし始める20代前半までの表情の変化が素晴らしい。
デンマークの方なので、中々お目にかかれない可能性もあるが、是非次作を鑑賞させて頂きたい女優さんである。>
“おはよう”と“ソーダ水”
「どうして子どもの心がわかるの?」という小学生からの質問。それを解き明かすような自叙伝的ストーリー展開でしたが、幼い妹たちよりも自分の子どもを育てる苦労から来てるんだね!と、何を書いてもネタバレになってしまいがち。それよりも邦題のつけ方がニクい。本来の姓から新聞社のブロムブレイになるのかと思わせて、まさか偽名で使ったやつか?と、姓にかかわる興味でワクワク。終盤になってからその秘密が解き明かされる。
1926年という時代が彼女にとって波乱の年だったに違いない。父親のいない子供だという宗教上の問題と、ブロムブレイ氏が実は離婚成立してなくて浮気調査に躍起になっている点で、アストリットは逃亡生活を強いられる。生まれた子供はラッセと名付け、デンマークの里親で育てることになったのですが、スウェーデンとデンマークを行ったり来たりでパスポートがハンコで真っ黒になるほど。「もうお金が無いの」と泣き崩れる姿につい応援したくなってくる。
かん通罪というターニングポイント。彼氏が刑務所に入れられると思っていたのに、呆気ない顛末にアストリットは怒り心頭。それならこんなに苦労することはなかったのに・・・おかげでラッセは里親マリーを母親だと思い込み、スウェーデン語が通じなくなっている。似たような言語だからなんとかなったものの、言語の壁ってのも興味深いところだった。
バンド演奏で「Puttin' On the Ritz 踊るリッツの夜」がかかるのですが、むちゃくちゃ懐かしい気がして一緒に踊りたくなってきました。とは言え、知ってるのはタコのリメイク版でしたが。あのクレイジーな踊りも最高!腋毛も見えちゃってるけど、それも含めて主演のアルバ・アウグストが良かったです。
母性あふれるリンドグレーン
映画の出来がどうというよりも彼女の半生そのものがすごい。
今やスウェーデンは、社会福祉や人々の権利意識が世界でも最も進んだ国だが、100年前にシングルマザーとして生きていくのは想像を絶する大変さだったと思う。
社会的通念や因習を打ち破って逞しく生きてきた女性一人ひとりの歴史があるからこそ、今がある。
彼女の溢れる母性に共感して切なく、涙した。自分自身の幼少期や子どものことが思い出された。
彼女の人生後半、結婚してから作家になるまでも映画化してほしい。
素晴らしかった
生んだばかりの子を預かってもらう、しかも外国に、断腸の思いであろうことがひしひしと伝わる。その上、物心ついた頃に会いに行くとお母さん扱いしてもらえなくてつらいし、養母が病気になって引き取ると、本当のお母さんに会いたいと言われてしまう。自棄になってパーティで酔っ払ってめちゃくちゃに踊っているのが見ていてつらい。ハッピーエンドで本当によかった。
“リンドグレーン”はどこにいる?
何を書いてもネタバレになってしまうような単純な話。
予告編の冒頭にあるように、老いたリンドグレーンの元に届いた少年少女のファンレターが読まれるので、かろうじて“リンドグレーン”であることが示唆されるのみ。
作家になる手前で終わってしまい、作家になる経緯は不明。
後年に書く作品の着想がどこから来たのか、どういう少女時代を送ったのか、といった“作家性”とも無関係だ。
当時の保守的な「教会」や田舎のコミュニティのあり方と、そこからはみ出して自立して生きる女性を描いた作品とは言える。
しかし、それだけでは映画にならないと思う。
映画になったのは、主人公が“リンドグレーン”だからだが、我々が知りたい“リンドグレーン”はどこにもいないのではないだろうか?
産みの親と育ての親
特に私が印象に残ったシーンは
リンドグレーンが子どもを産んだあと、おっぱいが張ってとても痛くて
あれにさらしを巻き、産まれたばかりの子どもと別れるというのは相当辛かったと思う。
出産を経験した女性にはこのシーンは痛いほど胸に突き刺さったのではないだろうか。
産みの親と育ての親
リンドグレーンの息子がしばらくマリーをママだと言ってリンドグレーンに懐かなかった。
日本では三歳児神話が今でも根強く残っているが、(産みの母が子どもを3歳までしっかり育てなくてはいけないという思い込み)産みの母、実の母でなくてもそれに代わる人がいれば十分愛着が形成されるというのがよくわかる。
波乱万丈な人生を送った女性である。
リンドグレーンさんと結婚した経緯をもっと描いて欲しかったなぁ。
母は強し、というより強くならざるを得ない
アストリッド・リンドグレーンが作家になるお話かと思っていたら、それよりもずっと前の仕事や恋愛の話でビックリ。
娘の同級生に手を出すクズはともかく、アストリッドが辛い思いをしながらも諦めず自分を貫く姿に、同じ母として涙が出ました。
結婚すれば夫婦になれたり子どもを産めば親子になるわけではなく、模索しながら作っていくものなんだなぁ。
観終わって改めてアストリッドの本を読んでみたくなりました。
自分の欲望を知ってる人は強い。
アストリッドは自分のしたいこと、欲しいもの、大事にしたいことが、若い頃からわかっていた人だと思う。
1920年代くらい?で、そんな女の子はそういなかったと思う。
友達の父親に欲情して、自ら誘った彼女はかっこいい。
その結果に苦労があったとしても立ち向かい、クヨクヨして当たり散らしたとしても、前に進んだ。
自分の欲望を自覚して自分勝手に生きる。それでいいと思う。
後悔なんてしない、たぶん。
アストリッドのダンスも良かった。カッコええダンスだった。
あと、年代がわからなかった。電話あるしな、第二次世界大戦前っぽいけど、画面明るいな。とか迷ってた。
観賞後にアストリッドが1907年生まれとWikiさんがゆうてるので、16歳ってことは1923年ね、と。
1923年のスウェーデンを知ってるわけじゃないけど、想像よりも現代っぽい画だったなーと。些末なことだけど。
デンマークでお世話になったマリーがええ人だった。
アストリッドの父と母は、時代を考えれば寄り添ってくれた方だと思うよ。
ラストにラッセを母が抱いて家族で教会に堂々と行くってゆうのが、唐突やなーとは思った。そしてそんなにあっさり?とも思ったけど、まぁ尺の都合かな。
職場の優しげな男性が「リンドグレーンさん」だと知らされて、はぁんこの人と結婚すんのね、と読める展開に、安堵しました。
関連性
スウェーデンでは紙幣になるほどの有名児童文学作家、リンドグレーンを描いた今作品。内容は彼女のわずか16歳から10年に満たない間の人生を切り取った内容なのだが、いかんせん、どの様にして児童文学作家になったのか。その過程がわからないのが残念である。
特に波乱万丈にとんだ人生というわけでもなし。単に若くして(日本で言う高校生?大学生?)で一児の母親となったのだが、そこをことさら強調されてもリンドグレーンなる人物像があやふやで、輪郭が見えないのがこの作品の弱いところでもある。
でも、まぁ退屈じゃなかったからいいや。
一日中映画館に居る。好きなだけビールを飲む。
それが大人流。「一日中木登りして、好きなだけソーダ水を飲むのが子供流」に対抗シテヤル!
なんか、今日は何でも刺さる日みたいです。朝から「ダンス・ウィズ・ウルブス」「マザーレス・ブルックリン」とコレ、全部刺さってるからw
才能に溢れる奔放な少女が輝きを失うまでの物語と、輝きを取り戻すまでの物語。地味です。本当に地味な進行と演出。クソです。マジでクソです、あの男。娘の同級生に手、付けます?付けられます?マジ死ね。って言いたくなりますが、恋は盲目かいな。
守らなければならないモノ、それが本当に守る価値があるものだったのかはさて置き、そいつらはアストリッドの輝きをくすませて行き、最終的に、彼女を孤独と絶望の淵にまで追い詰める。ヒトの善意と好意と愛が彼女を救い、ラッセへの限り無い愛が、輝きを取り戻すキッカケを作ってくれる。
「リンドグレーン」って言うタイトルが、はなからネタバレですやん!って言うツッコミ殺到のイケメン登場シーンには苦笑いしたけれど。
良かった。地味に泣けてw
「長靴下のピッピ」を世に送り出した女性の半生が、とても生き生きと描かれた作品です。
予告編で聞いた歌声の、その寂寥感にあふれたメロディーが頭に残っていました。
「長靴下のピッピ」の作者の半生を描いた作品と知って鑑賞。
と、書いたものの、「長靴下のピッピ」の作者が
「アストリッド・リンドグレーン」という女性であること。
この作品で初めて知りました。
スウェーデンの田舎に生まれ、
古い因習や道徳感に縛られながら
もっと自由に生きようとする主人公が、生き生きと描かれています。
作者の半生といいながら、実際は
16才から10年間位しか描かれておりません。
「長靴下のピッピ」の発表が、作者38才の時(1945年)らしいので
この作品のエンディングから、さらに10年以上先の話になります。
結婚の話や作品誕生の話は一切描かれませんでしたので
その間も色々とあったんだろうなと、あれこれ思いが募ります。
NHK朝の連続ドラマの題材になっても良さそうなお話でした。
見応えありです。
「長靴下のピッピ」も読んでみたくなりました。
余談
ヒロインを演じた役者さん
最初はすごく幼く見えたのが、ラストのほうでは立派な母親を演じていて
なんかすごいなと感じました。
上映館
上映している映画館数をみてみたら、全国で1ケタでした。 少な…
なんかもったいない気がします。
☆映画の感想は人さまざまかとは思いますが、このように感じた映画ファンもいるということで。
枕に足をのせて眠りたい
2019年最後に映画館で見たのが、リンドグレーン。
小さい頃、長靴下のピッピが大好きでした。
この映画は、アストリッドがリンドグレーンになる前の若かった日々を丹念に描いています。
こういう人だったんだ、という驚き。
不倫してシングルマザーになるも、ブロムベルイは「姦通罪の罰金が安くすんだ」なんて言う男。
彼の家族と日曜日に教会で顔を合わせるような田舎の土地柄で、アストリッドの両親に子どもが受け入れられるのにも時間がかかります。
預けていた子どもはなかなか懐かないし、のちに結婚することになるリンドグレーン氏と出会うまで、いろいろ大変な人生だったんだな、と思いました。
悔し涙は流しても、後悔の涙は流さない
作家の半生、というと最近ではトールキンさんの映画がありましたが、今度はスウェーデンの児童文学作家・リンドグレーンさんです。恥ずかしながら私は知りませんでした。
作品の名前は『長靴下のピッピ』というのを聞いたことがありましたが、読んだ記憶もなく作者の名前ともども何も知らずに鑑賞(よくもまあ⁈)。
厳格な宗教観に包まれた小さなムラの、その中でもひときわ倫理観に敏感な家庭で育ちながら、奔放さを失わず、男性社会の旧弊と闘う姿。
一言で要約すると〝差別や偏見と闘う女性〟というありきたりな類型に当てはまるのだと思いますが、さにあらず。
どんな時代背景であっても変わらない思春期の好奇心からくるヤンチャな振る舞い、ちょっとわたしオトナをしてみた、というはたから見ると危なっかしい冒険。
でも、彼女の場合、すべてが本気で、すべての結果に責任を負う。己の非力さへの悔し涙は流しても、やったことへの後悔の涙に明け暮れることはない。
中途半端に大人の社会に慣れてしまった目から見れば、想定される最大のリスクに備えながら、結果的に最小のリスクで済んだ(1000クローネで手打ち‼️)ことは成功の部類と思われるが、子どもを取り戻すための彼女の戦いにおける勝ち負けの判断基準の度量衡には存在しない概念だったということなのだと思いました。
【余談】
スウェーデンは人口1000万人ほど、つまり、人口比では東京都よりも小さな国。
それなのに知財の発揮度合いは凄く高いように感じてます。
自動車のサーブやボルボ、通信のエリクソン、ファッションのH&M、家具のIKEA。
リンドグレーンさんだけでなく、ドラゴンタトゥーの女などのサスペンスなど映画の原作も結構ありますよね。
女性監督ならではの、主演女優との阿吽の呼吸
小学校のころにピッピや名探偵カッレのシリーズを読んだ。その女流作家アストリッド・リンドグレーンの若かりし時代のエピソード。ペアニル・フィシャー・クリステンセン監督の丁寧な演出を受けて、主人公の悲しい青春を細密画のように演じる女優アルバ・アウグストの演技が清々しい。撮影のエリク・モルバリ・ハンセンがいい仕事で、美しい北欧の風景を描いていく。なかなかの逸品。春に上映していた「田園の守り人たち」から岩波ホールの作品は、逆境の人生に立ち向かって生き抜く女性と家族を描いた作品が続く。本作もそんな流れに相応しいと思う。
In my life in all our lives I wish peace on the earth. インタビューを終わる前の言葉。
この映画の始まりは、逆光の中、自宅書斎で手に年齢を感じさせる作家が決してこちらを振り返ることはなく、背を向けて手紙をペンナイフで開けて読むところから幕が開ける。その前に個人的に避けたい映画に対する言葉"Inspired by events in Astrid Lindgren's life"なんてものもあるが...?
多くの手紙の中には、カセットテープも含まれている。その時代を感じさせる。
Happy birthday Astrid from Class 4Aより
Dear Astrid Lindgren.
We're a 4th-year class from Håsthult School.
We want to wish you a happy birthday-
-and thank you for all your stories........
この物語は、主人公のアストリッドが子供の時に住んでいたスウェーデンの片田舎は敬虔な宗教の場であり、その閉鎖されたような村社会から作家自ら”a snake pit”と呼び、風が厳しく台地も物を拒むような寒空を背景にハイティーンから約23~24歳頃ぐらいまでのごく短い期間に彼女が体験する子供の出産から、外見と言葉はいかにも優しく見えるが、それとは裏腹に女性の事を何も理解しない男との決別。そして、愛したくても愛せなかった自分自身の子供の愛を再び勝ち取るまでの半生を中心に描いている。その場面場面のエピソードごとに韻を踏むように子供たちから送られてきた彼女への感謝と誕生日を祝う手紙の内容が、彼女のその時の立場に呼応するように表現されているので、何故、作家が子供たちに生きる勇気や人に対する優しさを描き出すことができたかの変遷的意味合いも含めてつづられている。
1970年の新聞のコラムから「私が子供だったら、子供の立場で本を書く。」と言っていたように1945年から本格的に作家として活動が始まった遅咲きともいえる中に戦中の悲惨さを肌で感じている作家が、彼女の読者である子供たちの考えに大きく影響を与えている。
Dear Astrid. My name is Jenny.
You write a lot about death.
There are lots of dead people in your stories. Pippi's mother...
Jonathan dies, Kari dies. Mio's mother is gone, too.
But when I read about it in your books, I just want to live.
You just want to live.
蒙昧なものにとって、何故この映画の製作者は、視聴制限をPG-12ににして、童話作家のバイオグラフィーの中に性的な表現も含む描き方をしたのか、最初意味が分からなかった。彼女の懺悔的映画と捉えていいのか? 親として里子に出した息子に対して純粋に愛を分け与え、そして彼からの信頼を勝ち取る過程で必要だったのか?
この映画に出てくるデンマークにおける90年前の里親の仕組み。日本では言いにくいが、当時も現在も、そのようなことは闇に葬られ、人として命の大切さを声高に言う割には、多くの生まれてくるはずだった子供たちが犠牲になっている。その当時の事を考えると画期的か?その里親マリー役の方は、つい最近見る機会のあったドイツ映画「ワールドエンド・サーガ」にも出演されていたトリーヌ・ディルホムさん、あなた一体何者? ベルリン映画祭で最優秀女優賞を獲っているのは知っているが、その活動範囲の広さが...スーパーウーマンか? 表現が悪すぎましたすみませんでした。謝るぐらいなら、書くなってか?
The children in your books can overcome almost anything.
Pippi gets along without her mother and father.
Emil is never scared, even when he gets punished
and locked in the woodshed.
Mio is starving and thinks he's going to die,
but he wins out over evil in the end.
That's what I want to be, someone who never gives up-
-but keeps fighting even if I'm hungry and feel alone.
生前、リンドグレーンが英語でインタビューに答えていた。
インタビュアーが、”なぜあなたは、ピッピのキャラクターをとても強いものとしたのですか?”という質問に対して、「とても風変わりな名前に、とても奇妙なことをするピッピを描くことでそうなりました。」
またインタビューアが付け加えるように”社会的にピッピの行動が一般の子供たちに影響があるのではと言われているが?”の問いに「ある教授がそのことについて指摘していたけれども例えばピッピがホールケーキを丸ごと食べちゃうところがそうなのかもしれない。馬を頭より上にあがられるなら、ケーキ丸ごと食べてもよいじゃないのかな。」なんてお茶目な面も...御愛嬌。
しかしそんな中でもリンドグレーンの娘のカレン・ナイマンが2018年8月に、まだ’かんつう罪’という法律があった当時のスウェーデンにおいて母親の未知なところをスキャンダラスに描いた映画として否定するコメントを載せているのも事実。
それとは別に発行部数では群を抜いているイーニッド・ブライトン、ディズニーによって改変された「メリーポピンズ(1899)」の原作者であるP.L.トラバース、リッチマルクロンプトン、スウェーデン系フィン人でムーミンでしられるトーベ・ヤンソンなど一人を除いて児童向け作者であり女流作家の代表である中の一人、リンドグレーン。その彼女たちとは画する特徴として、晩年に穏やかに話す、優しさしか見えない方が日本でも叫ばれている”虐待”をいかなる場合でもいかなる権力の下でも絶対に許さない立場にいる。
余談として、「オズの魔法使い(1939)」で本当は、シャーリー・テンプル女史がドロシー役を務めるはずが、13歳にしてプロデューサーの愛人であった方が主演を射止めたいきさつを口に出したくはないが......それとは180度違い、世界恐慌の影を引きずり続ける”20世紀フォックス社”をその細腕繁盛記の様な細い小さな手でV字回復を成し遂げた功労者で、結婚後はシャーリー・テンプル・ブラック大使となりアメリカに貢献し、絵にかいたような人生を全うした彼女のおかげで、日本でも半世紀以上前にテレビ放映された”The Shirley Temple Show”というテレビ番組で「長くつ下のピッピ(1961)」が「オズの魔法使い」「くまのプーさん」「人魚姫」と肩を並べてみることができた時代がある。それに触れれることができた方はラッキーなのかもしれない。その当時、まだ子育てで忙しい女史が、その合間に出演できるように制作側が気を配り、スケジュールを調整し、前例のない番組作りをされたと聞く。彼女の世の中に対する貢献度がわかるものだが、ただし、制作側も忙しかったのか、大道具さんが映像に映り込んでいるところもあったりしていた。
ただ幸いなことを挙げるなら彼女の作品が、まだディズニーでは映画化されていないのでは...? 大人目線でしか考えない、拝金主義で、ホワイトウォッシングばかり気にして、話や時代や設定を根本から捻じ曲げてでも映像化をしているディズニーだけには、彼女の作品を制作してほしくはないと願う蒙昧な者の小さな希望を許してほしい。
日本のように建物の中で見る一段高いところにある子供演劇もいいけれども、別次元の北欧の野外シアターは子供と親が伸び伸びとしてみることができ、また劇場と観客の隔たりを一切感じさせないものとなっている。それは手作り感があり、地元の方たちの参加型シアターで周りを緑の自然に囲まれているので、その場に溶け込むように演劇がいつの間にか始まっている。環境は...ただただ素晴らしい。
映画「サーミの血(2016)」でも紹介された少数民族サーミ人でもあるスウェーデン出身のANE BRUN が歌う”SPRINGA”。 ♪Take a leap, just dare to a leap Through death into life で始まる曲が流れると同じにするかのように彼女と息子のラース二人が、彼らの幸せな姿を観客に提供しています。
Finally パチパチ
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