異端の鳥のレビュー・感想・評価
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描かれた、ではなく、塗られた鳥
英題のタイトルから、鳥が描かれた絵が題材になっているのかと思いきや、まさかペンキを塗られた色の違う鳥が、他の鳥から総攻撃されるというシーンが比喩になっていたとは驚いた。。。
福田村事件も強烈だと思ったが、こちらの場合はスタートからラストまで、気持ち悪くなるくらいに残酷。仲間以外のヒト(ヒトとは思っていない?)に対しての人間の残虐性がこれでもかというくらいに描かれている。
そして少年が徐々に経験を積みながら、復讐する場面では、思わず「ヨシッ!」と思ってしまう自らの残虐性にも気付かされるという、ハードな設定。しかしこれまで全くヒト扱いされてこなかったこのユダヤ人少年にも、ちゃんと〈Joska〉という名前があった、というところでラストを迎え、自分もヒトに戻っていくことが感じられた。
正直賛否両論はあるだろうが、自分にとってはかなり好みの映画だった★
異端を排除するという人間本来の醜さ
最初、何故叔母の家に預けられていたのかを知らずに観始めてしまったので、訳が分からなかったが、最後のシーンで、ナチスからの迫害を恐れた両親が叔母の家に息子を疎開させたというので納得。
そのたった一人の頼れる身内である叔母のところに居ても、近くの子ども達から殴られ、叔母の突然の死から、自宅を目指して始まる少年の大冒険。
と書けば楽しそうにも、また良い人にも出会えそうな気にもなるが、この映画で出会うのはほとんど醜い人間の性をさらけ出した人ばかり。
行く先々の村で、醜い人間の性を見せつけられ、迫害を受けながらも生き延びて移動していく少年。
優しかったのは亡くなるまでの神父様と、途中であった兵だけ。
その兵から教わったことは「目には目を。歯には歯を。」
きっと最初は純粋だった少年の心は旅を続ける中で蝕まれ、その兵の言葉が心に残り、旅のおわり、孤児院に収容される頃には少年の心はすっかり荒み、旅を始める時とは全くの別人核になってしまっている。
最終的に迎えに来た父親にも背を向け、バスに揺られる姿は、戦争というよりも、人間の醜さに翻弄された少年の悲しさを映し出す。
ほぼ3時間という時間、ただただ醜い人間の性を見続けないといけないのは辛い限り。
またモノクロの映像が余計に寂しさ、侘しさ、辛さ、そして異端を徹底的に排除するという、人間が本来持つ醜さを浮き彫りにしている。
観る価値が無いとは言えない映画だと思う。
映像美と過酷な戦時下
ユダヤ人の少年がナチスから逃れつつ、いく先々で凄惨な目に遭う映画。
全編モノクロかつBGMも無い。
"主人公の少年"を描くというよりかは"少年にスポットライトを当てている"という感じで、ありのままの事実を誰にも肩入れせずに映し出しているため非常に淡々とした印象を受ける。
派手さは無いが、3時間飽きずに見る事が出来る。映像に過不足が無く、誰が何処で何をしているかがはっきりと分かりやすく、まるで自分が透明人間になってその場にいるかのような臨場感が感じられる。
映像作品としてレベルが高いと思った。
この映画を観終えて真っ先に感じた事は「人の善意」についてだ。
少年はたどり着いた全ての村で暴力を受けたり、人としての扱いをされなかったり、本当に本当に酷い目に遭う。そして、ストレスで発語能力を失い、大人しい性格だったのが暴力的に変貌していき、ついには人を殺すようにまでなってしまう。
その後、父と再開を果たし、いっしょに家に帰ろうと促されるも、自分をこんな目にあわせておいて何だ!!と激昂する。
家に帰るためのバスに乗り、不貞腐れる少年。
意地でも父と視線を合わせまいとしていたが、居眠りする父をこっとり見ると、腕に収容所の識別番号が刻印されていることに気づく。
父は少年のためを思って彼を疎開に出した。そして父もまた、収容所で壮絶な生活を送っていたのだった。
少年がバスの窓に指で自分の名前を書く。
もう一度人を信じる事を思い出し、自分の人生を歩んでいくのかな、そう思わせるラストだ。
人の本性は野蛮なものだ。
本来は自分の欲望のためなら平気で人を傷つけるのが人間だ。
それでも、過酷な戦時下でも人への思いやりを失わなかった人達がいる。
この過酷で絶望的なモノクロの世界の中で、揺るぎない人の想いだけが暖かな色彩をもっているかのように見えた。
胸糞映画かもしれないが、ラストは明るいと思うのでオススメです。
悉く…
同じ人が受けてる仕打ちなのかと、一つでも嫌だが、惨すぎる。しかも子供。リンチを受け、川に流され、カラスに頭を啄まれ、隣では目をえぐられ、ソ連に売られ、男に犯され、掃き溜めに投げられ、極寒の中、氷の下に落ち、女に慰み者にされ、正に生き地獄。途中、不謹慎だが、ここまでの不幸の連続で笑えてくるほど。人間の所業とは思えない。まるで悪魔だ。そして悪魔は悪魔を生み出しかねない。略奪者達が吊るされる場面では少年は笑みすら浮かべるようになり、本来あるべき人間としての感情が壊れてしまっている。孤児院にいれば平和なものの、いつしかその暮らしにも慣れず抜け出そうとし、銃で人を殺してしまうまでになる。夢であった実の親と再会を果たしても、涙すら流さない。親に疎開させたのはお前のためだったと言われても、想像を絶する体験をしてきた本人にとってみれば、無責任なことを言うなと感情が爆発する。父と共に母の元へ帰る途中、父の腕に刻まれた収容所での番号を見て、父たちも苦労していたことを知ったのか、窓に自分の名前を記す。そう、この映画、ラストに初めて少年の名前がわかる。そんなこと気にならなかったくらい、衝撃的なシーンの連続だったことを思い知る。実話ベースの話がいくつあるだろうか。すぐには、いや一生元の生活のようには暮らせない、普通の感情には戻れないかも知れないが、ラストシーンに一筋の光明が見えた。見てて苦しかったが、バッドエンドとならず良かった
人間の本質を抉りつくして残ること
ユダヤ人虐待の話であるが、それと使ってさらに人間の本質に迫ろうとした作品である。しかも、ほとんどセリフはなく、つかみきれない場面もあった。
ただ、一貫しているのは異端の排除と人間の身勝手さだ。しかも戦時下の影響もあって荒んだ人々の手にかかるため、信じられないほどの残酷さで淡々と描かれていく。少年はとんでもない目に遭いながら生き抜く中で、良くも悪くもその残酷さを手に入れてしまうのだ。
最後、迎えにきた父親と共に家に帰るシーンとなるが、そのいく手も決して希望のあるものでないことを暗示している。救いがとことん無い映画だけれど、エンドロールで流れる曲を聴きながら、少年の気持ちに寄り添うしか無いなのかなぁと思った。
The Painted Bird
映画「異端の鳥」(バーツラフ・マルホウル監督)から。
久しぶりに、人間の卑劣な部分を思い知った気がする。
制作は、チェコ・スロバキア・ウクライナ合作だけど、
どこの国にもあり得る、差別、いじめ、リンチなどのシーンが
これでもかってくらい続く、見ていて辛い内容だが、
2時間49分の長編・モノクロにもかかわらず、
あっという間に、観終わった。
モノクロの効果は、肌の色も髪の毛の色もわからない。
ということは、自分たちには関係ない外国の話ではなく、
世界のどの国でもあり得る話として受け止められた。
原題「The Painted Bird」で象徴されるように、
黒い鳥を、わざわざ白くペイントして空に放すシーンがあり、
たぶん以前は仲間として認識していたにもかかわらず、
今度は、和を乱す敵として認識し、多勢で攻撃を仕掛け、
傷つき、疲れ果てて墜落する光景が目に焼き付いている。
最近、よく耳にする「LGBT」をはじめとしたマイノリティも、
最初は、こんな状態だったのだろうか。
この「The Painted Bird」も複数だったら、もっと多かったら、
結果はどうなったのだろうか、
そんなことまで深く考えてしまった作品となった。
モノクロの凄さ
モノクロの映画を久しぶりに観ました。
本編は、ホロコーストを逃れた少年が見た生々しいほどの人間の本質に迫る話で映画館で観ればと少しばかり後悔しています。
それだけ、この映画を見応えがあったかと思います。
少年が出会う人々がはっきりというとクズの様な人ばかりでした。だけど、そこが人間の欲の部分であり、本質なのかもしれないと感じさせられました。
僕も主人公の少年様な境遇にあっていたら、死んでしまいたくなる様な辛い出来事はがりに遭遇します。
それでも生きていれば何か希望があるのかもしれない。
目に見えるものばかりを信じてはいけない。だけど、進んでる道に光もある。
そんな、映画かな感じました。
ホロコーストその原因
多数派からの迫害を受けるペインテッド・バードである少年は居場所を失い彷徨う。
少年の行く先々で出会う人々もまた善人悪人に関わらず多数派からみれば名前を持たない(劇中ほぼ名前を呼ばれず、視聴者はチャプタータイトルで知る)ペインテッド・バードなのだ。
これは名前が求める旅であり、その中で少年は心を閉ざしていく。
最後に書く名前にのみ希望が残される。
どうやって残酷さに立ち向かうか
戦火のもとでは誰もが残酷になり得るという認識は、小説や映画、絵画なども含めてすでに様々な記録から自分の中では既知のことだった。
宗教も然り。
とにかく序盤から終盤近くまで、両親のもとへ帰りたい一心でさまよう少年に降りかかる災厄は、中盤を過ぎた辺りから、少年もまた同じ隘路に陥るのではないかという不安を駆り立てた。
父親との再会に前後するエピソードは、その不安を具現したものではあったが、一転、彼が自分の名前を明らかにする象徴的なラストシーンは、トラウマからの回復を予見させることになる。
ただ、そのきっかけはどこからも感じられず、さんざっぱら大人たちに酷い目に遭わされた少年に都合よく回復の予兆を与えて贖罪の意を見せたようにも感じて、やや消化不良な印象が残った。
ステラン・スカルスガルドやバリー・ペッパー(プライベート・ライアンと同じような役どころしか来なくなったように思えてキャリアが心配)のように彼を人間扱いする人物もいたことが、少年をかろうじて人間たらしめたとも言えるのだが、それぞれのエピソードに芯となるつながりがないことから、説得力の弱さを否定できない。
現に、バリー・ペッパー演じるソビエトの兵士は「目には目を、歯には歯を」と彼の信条を少年に託し、少年はその後のエピソードであまり躊躇う様子もなくそれを実行に移す。
彼は自分の名前を思い出し、人並みな暮らしが還った後、そのことで苦しむことはないのだろうか。
人はどうやって残酷さに立ち向かい、そこから立ち直るのか、という重い問いを投げ掛けた芸術作品は数多くあるが、本作は淡々と残酷さだけを描いたという点で確かに邦題の通り「異端」である。
家族写真
重いですね。虐待も差別もひどいと思ってみてますが、さらに70年後の人が現代を舞台にした映画を見たら、現代もまた野蛮な時代に見えるかもなんて思いました。
ところで覚えてる方いれば教えてください。
主人公が最初お婆さん?と暮らしていた家に家族写真がかざってありました。お婆さんと両親と主人公のように見えます。
その後、輸送列車から逃げた人達が撃たれた現場で、主人公がトランクを開けると同じ家族写真がありませんでしたか?それで両親もここで撃たれたのか泣・・と思ったので、最後おやっ?となりました。見間違いでしょうか。
よかった
ロシアの映画だと思って見ていたのだけど、チェコだった。ロクな大人が出てこなくて、みんながみんな性に旺盛で、やばい。ずっと農村ばかりだったため、途中まで時代もよく分からない。軍人が出て、銃が映って、町が映ってやっと電気とかある時代なのかと思う。
うちにも男の子がおり、絶対にあんなふうにはならないで欲しい、文明社会はありがたいと思う。
_φ(・_・狂気の果て
人間とりわけ一般ピープルの差別からくる狂気と暴力は悪虐の限りを尽くしたナチスやソビエト共産党をも凌ぐってことでしょう。戦争の殺戮の原因は決してイデオロギーではないってことでしょう。
主人公は大戦最中彷徨う中人間がするあらゆる差別と狂気、暴力に合うがまともに助けられたのは戦場で人殺しの限りを尽くすナチスやソビエト共産党の兵士。人々を救済する宗教ですら主人公を打ちのめします。
つまり人殺しの兵隊の方がマシってことでしょう。若い淫乱な女性に性的虐待を受けるが主人公はヤギの首を切って投げつけ逃げ出す。とても象徴的。お前ら悪魔以下だろが!!っていうメッセージでしょう。
最後父親が出てきちゃって少し拍子抜けだったが名前を取り戻すこと自体は印象的です。
個の確固たる確立の重要性を説いているのでしょうかねぇ?
少年の目を通して描かれる悪意の寓話
パンフレットを読むと、原作は作者の実体験に忠実なものではないらしい。
それを知って少し安堵した。一人の人間がこれほどまで完璧な悪意の数々に出くわすだろうか?と訝しんでいたから。
この映画は少年に向けられた悪意というより(もちろんその場合もあるが)、少年の目を通して人間の獣性を露わにしていくもので、モノクロの画(え)はどこかおとぎ話のような凄惨な美しさを秘めている。
使用人との浮気を疑い妻に暴力をふるう夫、売春婦と息子が姦通したことに腹をたて、売春婦の膣にボトルを差し込み殺してしまう主婦たち、敬虔なクリスチャンのふりをして少年を手籠めにする農夫。
閉鎖的な空間で自分が優位に立ちたいという生理的な欲求と虐げられる弱者。
一番心に堪えたのは、小鳥を逃がすふりをして、実は仲間から攻撃されるようにしむけた鳥飼のエピソード。
自分よりも弱い動物を守り、涙する心を持っていた優しき少年は、次第に感情を失っていく。しまいには失恋の腹いせに、恋した女性の家畜の首を切り落とし、部屋に投げ入れるほどの攻撃性を見せる(ゴッドファーザー2を思いだした人は私だけではあるまい)。
少年の旅する世界は架空の世界で、言語はスラブ語をベースにした、これまた架空のものだという。
ラマや、コサック、ロシア兵などの実在の名詞は出てくるが、地域を限定しないことでより抽象的に描いたのだろう。
戦時下の人間は自分本位になりがちだが、兵士以外の一般人においては、この映画のようなむき出しの攻撃性は見せないのではないだろうか。
それよりも、「積極的な消極性」が際立つのではないかと、個人的には思う。要するに「苦しむ人を助け〈なかった〉」「捕虜に水をあげ〈なかった〉」「病気の人を防空壕にいれ〈なかった〉」「みなしごを見殺しにした」などなど…。
何が言いたいのかというと、登場人物の行動は残虐と非道という点で、あまりにステレオタイプで芝居がかっているということ。
ただ、自分も戦争のような極限状態になったら、描かれた人間たちと同じように底知れぬ悪意を見せるのだろうか…と、潜在的な恐怖を感じた。時代が狂っていると、自分が狂っていることには気がつかない…そんな気がする。
うちひしがれる。子供が見るべきでないものを見続けさせられた少年の眼は神の眼など通り越して人間の業(自分達と違うものを排除する等)を冷ややかに見つめるカメラのレンズとなる。
①少年が人間(大人)世界の醜さ、戦争の愚かしさ・悲惨さを目撃するところは『ブリキの太鼓』を少し連想させる。ただ、あちらは如何にもゲルマンという感じに対し、こちらは東欧の土俗性が強く感じられる。②まるでモノクロの絵画のような映像美の画面。画面に力があるので眼を逸らせない。3時間近くある長尺だが少しもだれない。悠然と流れる川の様な演出だが最終半はやや駆け足っぽくなったキライはある。③異常に嫉妬深い男が盛りのついた猫の交尾に狂気を爆発させて、妻に色目を使ったと思った使用人の眼を抉り出すシーンはかなり強烈。だが、この後本来子供が見るべきでないものを延々と見せられる少年の眼を抉る代わりとして使用人の眼が抉られたと取れないこともない(その証拠に少年は抉られた眼を使用人に返してあげる。ここで眼が入れ替わったという暗喩か)。④ドイツ(その前は神聖ローマ帝国)とロシアに挟まれていることから歴史の波に揉まれ、また多民族・多文化が併存する東欧のことがわからないと本当にはこの映画を理解出来ないのかも知れない。それでも自分達とは異なるものを排斥する(その最たるものがナチスによるホロコースト)という人間が共通して持つ狭鎰さ(劇中何度もモチーフとして出てくるキリスト教では原罪に当たるのかしら)は世界共通のものであり、失くなるどころか最近はポピュリズムという形で現代社会を覆いつつある。⑤もちろん少年は、観察者というだけでなく普通の子供であれば経験しない目にも会う。数えきれないほど鞭打たれ、性的虐待を受け、生きるために盗みもする。勃たなかっことを好きもの女に詰られた少年は、これ見よがしに女が⚪⚪した相手のヤギの首を落として女の部屋に投げ込む(ゴッドファーザーか!)、敬虔な筈の信者に肥溜めに投げ込まれる(田舎の協会のトイレってあんなのかが分かって勉強?になったがバッチい…カラーでなくて良かった)。人を殺すことも辞さなくなった少年(最初の殺人は自分を守るためだったし…相手は死んでも当たり前の糞野郎…二人目はロシアの兵士の「目には目を歯には歯を」を実行したに過ぎないとも言えるけど)は、やっとさがしだしてくれた父親にも心を開かず氷のような眼を向ける。そんな彼が父親の手に残された収容所で付けられた番号を見て彼もまたpainted bird だったということを理解して、バスの曇った窓にYOSKAという自分の名を書くラストシーン(私達観客もここで初めて彼の名前を知ることになる)は心が震えた。
人は愚かで惨虐。
最近、わかりやすく、見やすく作ってあるエンタメ映画じゃないと結構な確率で寝てしまってしょんぼり・・・ってなるので、『異端の鳥』は見るか見まいか迷いました。絶対エンタメ映画じゃないんでね。
でも寝ることなく、夢中で見られました。ひとまずほっとしました。
邦題は『異端の鳥』ですが、原題はthe painted birdです。
中盤で、後に自殺する男にペンキを塗られた小鳥のことです。
あの小鳥は、ペンキを塗られて他の鳥とは異形=異端になったんですね。
で、異端となった鳥は、その見た目の異端さから他の鳥に殺されたのです。
さて、主人公が受けた仕打ちと重なりませんかという比喩、なんだと思います。
ここで群れの中で一人だけ外見が違う、というキーワードから絵本スイミーを思い出しました。
スイミーは赤い小魚の群れの中にいて、1人だけ黒くっていじめられますが、スイミーの働きかけによって、異形を活かして群れに貢献することで許容されるというストーリーです。
小学校の教科書でこの物語を読んだのですが(絵本も読んだかな?)、周囲との差異は許容されるべきだという人生訓として折々に思い出します。
鳥と魚を人に置き換えて考える寓話として、共通項がありながら、結末は両極端です。
スイミーは理想であり志なんです。で、異端の鳥は現実なのです。
我々は、おぞましい現実から理想をめざすわけですが、理想は本当に遠い、と思いました。
主人公が見た目で異物と判断される基準が、私にはわかりませんでした。
東欧のどこかでは、茶色い眼で、濃いいろの髪はユダヤ人かロマであり、地元民(って言葉は適切でないかもだけど)とは違うということなのかな?そんなに東欧では茶色い眼って珍しいのでしょうか…不案内でそこがよくわかりません。
いずれにしても主人公は、ただの子どもでした。善か悪かも未分であった小さき物は、大人からの暴力にさらされ、彼らの仕打ちから暴力を覚えます。
冒頭では、オコジョみたいな狐みたいな生き物を守って森を逃げていた男の子が、後半にはヤギの首を切り取って人を脅かすことになります。人も殺します。
過程を見ていた私には主人公を責められません。
彼に責任があるとは到底思えません。
彼は自分にされた仕打ちから、生きていく方法を選び取っただけに思えます。
彼が出会った人たちが特段異常だったとは思いません。人は斯様に残虐であるということです。
してるかどうかも分からない浮気を疑い、妻を夜な夜な殴打する夫とか(夫きもすぎる)、
息子らをたぶらかした女をリンチして殺す母親たちとか(私は母親たちが異常だと思ってる)、
性的に不能(もしくは未熟)な主人公をあからさまに侮辱する少女とか(ヤギとの性交のまねごとを見せつけるとかきもすぎる←ヤギと性交していたとみる評もあったけど私には振りに見えた、けどどうなんやろ…ほんまにしてたってゆう描写なんだったらよりきもすぎる)
コサック兵とか、ドイツ兵とか、やさしい神父の信徒たちとか、戦争につかれているとか、貧しさにあえいでいるとか、様々な抑圧はあるんだろうけど、10歳程度の子どもにすることか?とおもえる残虐さが見せつけられます。
この75年ほど前の虚構が見せつける残虐さは、2020年の人間にももちろんみられる残虐さです。
私にもないとは言えない、醜い感情、行動(は私はしてないつもりだけど)…
人は醜いという現実を、重ねて知ることになりました。
後半のあらすじを雑に綴ると以下の感じです。
性的虐待きもきもヤローをネズミに食わせて逆襲し、やさしかった神父の元へ行ったら神父は死んでて、その葬式で朦朧として失敗したら地元民にドブ?肥溜め?に投げ捨てられて、それ以降声を失った、んだそうです。
だそうですっていうのは、見ていて気付いたからではなく、鑑賞後にコラムとか読んでなるほどと思ったわけですが。
で、ソビエト軍にちょっと囲われ、多分その時にはもう第二次世界大戦は終わってるっぽくて、その後孤児院にたどり着きます。
で、お父さんって人が迎えに来るけど、声は失ったものの、言動で父を責めます。机の上の食事をぶん投げるだけでは収まらず、廃屋?の窓を割りまくり、荒れ狂います。
そのまま終わりかと思ったら、お父さんとバスにのってお母さんの待つおうちに向かいます。
憔悴しきったお父さんの腕には、数字の入れ墨(ナチスが強制収容所の囚人たちに彫った番号、いろんな映画に出てきます)があります。
憔悴したまま目を閉じるお父さんをみて、主人公は、埃っぽいバスの窓ガラスに指でヨスカと自分の名を書き、映画は終わります。
映像はモノクロで、セリフは極少です。カラフルに感じるモノクロ映像ってゆうのがあるんですが(『COLD WAR あの歌、2つの心』とか)、『異端の鳥』はそういう感じではなく、色彩を失ったという雰囲気のモノクロです。
わたしは分かりにくいとは思いませんでした。
コサック兵とロシア兵の違いがよくわからなくって混乱しました。
復習したところ、コサック兵とはざっくりいうとウクライナらへんにあった軍事共同体(ってなんぞや)で、WWⅡではドイツ軍側についたらしいです。
惨虐な映像も多いので、万人に勧められるタイプの作品ではありませんが、良作だと思います。
【第二次世界大戦中、”ある人種”の少年が経験した苛烈過ぎる日々を描いた作品。現在でも世界に蔓延するレイシズムに対する強烈なアンチテーゼを示した作品でもある。】
ー 冒頭、少年は叔母と荒野の小屋で二人暮らしをしている。
少年は両親らしき人物と映っている写真を大切そうに眺めている。
が、ある日叔母は椅子に座ったまま動かず・・、少年は夕方まで自室で待つが様子を見に行き、死を確認した後、驚きの余りランプを床に落としてしまい、叔母の家は少年の大切な写真と共に燃え上がる・・。
全てが灰になった世界に立ち尽くす”非力な”少年・・。-
■今作品には、ナレーションは一切ない。
セリフも必要最小限。観ている側に提示される情報も極めて少ない。
モノクローム映像が、少年が経験する余りにも苛烈な数々の事を、章立てで、淡々と映し出していく・・。
<”名もなき少年”が経験した苛烈な出来事、幾つか・・>
・叔母の家を離れた少年は、祈祷師の老婆の所に連れて行かれ、”この子の黒い目は禍を運んでくる・・。吸血鬼だ・・”と宣託され、老婆の助手として働かされる。
・その後、ある老人一家の家に居候状態で転がり込むが、その家の主(ウド・キア)は若き妻と使用人との関係を訝しんで、夕食時、酒に酔い、スプーンで使用人の目玉を抉り出す・・。
ー うわわわ・・。”本気の”ウド・キア、怖すぎである・・。狂気を漂わせた目が怖すぎる・・。-
・野鳥を飼う老人とも、短い間共に暮らす。老人はロマらしき女から野鳥を買い、時に女と交わる。
女は村の男の子を挑発し・・、淫らな行為に及ぶが男の子たちの母親にバレ、厳しすぎる罰を女たちから受ける。そして、老人も又、自ら命を絶つ・・。
ー 老人も、ロマに近い存在かもしれない・・。
老人が傷ついた鳥の羽を治療し、空に放つシーンは今作を象徴しているシーンの一つであろう。大空を舞う鳥の群れは、
”羽に白い治療薬を塗られた鳥”
を受け入れず、地面に叩き落とす・・。
その鳥を掌に乗せる少年の表情・・。-
・少年は、ナチに捕まるが、”憂いを浮かべた”ナチの将校(ステラン・スカルスガルド)は少年を”射殺した事”にして逃がす・・。
ー今作では、”3人だけ” ”人間の善性もしくは矜持”を持った人物が描かれる。このナチの将校もその一人である。-
・少年は再び、ナチに同人種の老人と捕まるが、司祭(ハーヴェイ・カイテル)に助けられ、ある”罪を償った”男(ジュリアン・サンズ)と共に住む。
が、男は司祭の前では殊勝な顔をしているが、少年に対しては本性を現し、凌辱し、”司祭には言うな”とロープで吊るし、犬を嗾け脅す・・。
ーこの司祭は上記の3人の一人である。
司祭は男の本質を見抜いているのだが、”頼むぞ・・”と言葉を掛け、男の善性が戻ることを期待したが・・。司祭は病で亡くなる。
”男の塹壕での哀れな末路を観ていると、人間が一度、無くした善性は簡単には戻らないのか・・。”と暗澹たる気持ちになる・・。-
・少年は、凍った湖を歩く。時に氷が割れ、水中に落ちようとも、前進する。湖畔に立つ小屋が見える。そこには、病の老人と孫娘らしき女。春が来て、老人は亡くなり女は露骨に少年にみだらな行為を迫る。そして、ある晩”人間として、一線を越えた行為”をしている女の姿を少年は見てしまい・・。
ー少年は、ロバの首を切り落としたが、あの淫蕩な女が同じ目に会ってもおかしくないだろう・・。
ロバの首を女の寝ている小屋に投げ入れ、少年はその忌まわしい地を後にする・・。-
・少年は貧しき村でひっそりと生きていたが、コサック兵に襲われる村。何の罪もないのに殺戮される村人たち。が、そこにソ連兵がやってきて、コサック兵を追い散らす・・。少年は、ソ連兵の将校の傍で暮らすようになる。
ーこのソ連兵の将校が3人目の”人間の善性もしくは矜持”を持った人物として描かれる。仲間が野営地を出て地元民に襲撃された時に、この将校は少年を連れ、高い木に登り、少年に”良く見ていろ・・”と言い、ライフルで地元民が集落に狙いを定め、男達を撃ち殺す。
そして呟く ”目には目を・・、歯には歯を・・だ。”
そして、少年に”拳銃”を渡す。-
・少年は、街中で”ある人種”であることを、ある商人から激しく罵られ、殴打される・・。
- 少年が、その男に行った報復。且つては、”非力で”何もできなかった少年が・・。
”ある忌まわしき概念、思想”が齎した悲しき出来事であろう・・。-
・そして、ソ連兵の宿舎に待ちに待っていたはずの父親が現れるが、少年は笑顔一つ見せない。父親が作ったキャベツのスープも口にしない。父親は悲しそうな顔で少年を見つめ、”仕方がなかったのだ・・”と言う・・。
ーあれだけ、次から次へと苛烈な体験をしたのであるから、少年の対応は仕方がないよなあ・・。父親の哀し気な表情から、その痛みが観ている側にも伝わってくる。
が、少年も父親も悪いわけではない。生き残るためにした決断なのだから・・・。
では、その責任はどこにあるのか・・。-
<父親と二人でオンボロバスで家に戻っていく少年。疲れて眠る父親の腕には、ナチによって入れられた刻印が・・。
そして、少年はその刻印に目を置いた後、曇ったバスのガラス窓に”ヨスカ”と指で書いた・・。
少年が、実に久しぶりに、”一人の人間”に戻った瞬間だった・・。>
■モノクロームで淡々と・・、
苛烈な出来事を、”これでもか!”と観客に静かなトーンで、叩きつけてくる作品。
現代社会に蔓延る、自らにとって”異質なモノ”を拒絶するレイシズムに対する激しい怒りを込めた作品。
とても重く、正視しにくい場面も多数出てくるが、腹にズシンと響く、骨太過ぎる作品でもある。>
■蛇足 <2020年11月7日 追記>
・劇中、少年たちが交わす言葉が”何語”か分からず、”私もマダマダだなあ・・”と思いながら鑑賞していたが、先日判明。
スラブ語民族の人口共通語「インタースラーヴィク」であった・・。
バーツラフ・マルホウル監督の今作の映画化への執念(原作と出会ってからの準備に11年。脚本作りに3年。少年が成長する様を描くため、撮影に2年。)にも、勿論敬服した作品である。
誰かが塗る
モノクロームの画面が恐ろしいまでに美しい。
それはまるで、写真展に飾られたシルバープリントのようだ。
しかし、描かれているのは、目を背けたくなるような悲劇だ。
原題はThe Painted Bird。
このタイトルの意味するシーンは前半のうちに登場する。
絵の具で色を塗った鳥を群れに放すと、群れはその鳥を排除しようと攻撃し、殺してしまう。
paintは他動詞だ。
つまり、必ず「誰か」が「誰か(何か)」を塗るのだ。
このシーンでも、paintする=鳥に色を塗るのは人間だ。
主人公の少年は、身寄りがなくなり、さまよい歩く中で「塗られ」、迫害される。
「ユダヤ人だ」「悪魔の化身だ」などと。
また、周囲の大人たちも「塗られ」て、ひどい目に遭う。「女房に色目を使った」「子どもをたぶらかした」など。
誰かが「塗る」から、人が人を排除する。
その愚行を、本作は短編集のように、短いストーリーを次々と繰り出し、これでもかと積み上げていく。
終盤で少年の父が現れるのだが、彼の腕には数字が刻印されている。強制収容所にいた印である。
しかし、本作はナチスのユダヤ人迫害を、特別に取り上げているわけではない。
人の世には「塗る」ことによる差別や排除と、これに伴う争い(戦争)や暴力に満ちていて、あくまでホロコーストは、その一部に過ぎない、という描き方をしている。
悲しいことに、ナチスドイツが戦争に敗れ、ソ連が支配するようになった場所でも、少年は「ユダヤ人だ」として差別を受ける。
「塗る」ことの悲劇は終わらないのだ。
本作の各パートは、登場する人物の名前がタイトルになっているのだが、彼らが名前で呼ばれることはほとんどないし、さらに言えば主人公の少年が名前を呼ばれることは皆無だ(そもそも名乗らない)。
ラスト、家族の待つところに向かうバスの窓に、少年は指で自分の名前を書く。
彼が名前で呼ばれる生活を暗示しているのが救いである。
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