「大林監督の願い」海辺の映画館 キネマの玉手箱 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
大林監督の願い
大変に癖のある作品で、前半はその世界観に入り込めず、失敗したかなと思っていた。しかし中盤から徐々に面白くなり、終盤になるとなんでもない場面にも感動するようになる。前半にばら撒かれたわかりにくいシーンの真意が終盤ですべて明かされるのだ。そういうことだったのか、大林監督!と膝を叩きたくなるいいシーンの連続である。
明治維新の際に活躍した西郷隆盛や坂本龍馬や大久保利通がたとえ現代に生きていたとしても、世の中は決してよくならないと思う。ひとつは、国をよくしたいという情熱に満ちた彼らであったが、彼らのいう国とは国家のことであって国民のことではない。開国直後の日本は欧米の列強に伍していくことが主要な課題だったのだろうが、現代に求められるのは国民が平和に幸せに暮らせる国造りである。人権という考え方が世界中に浸透している時代なのだ。
もうひとつは、時代が彼らを否定したということである。彼らが不慮の死を遂げたのは、結局は当時の国民が彼らを望んでいなかったからだ。時代というものはそういうものである。その時代、その時代に、目に見えない大多数の意志みたいなものが確かに存在するのだ。日本が中国や朝鮮、東南アジアを侵略したのは国民の大多数がそれを望んでいたからである。大林監督はその国民性を付和雷同として一刀両断する。現代に待ち望まれるのは維新のヒーローの再来ではなく、ひとりひとりの自立した世界観なのである。
昔から役人は国民のことを蒙昧であると考えている。啓蒙という言葉の対象は常に庶民だ。「由らしむべし知らしむべからず」という封建主義時代の施政方針も同様に国民を馬鹿にした考え方に基づいている。実は現代の政治家や官僚も依然として同じ考え方をしていて、国民には情報を公開しない。都合の悪いことは教えないのが江戸時代から連綿と続く施政方針なのである。だから学校の教科書では日中戦争や太平洋戦争を教えない。そういう戦争があったことは教えても、その実態については教えない。
映画人は教科書が教えない映画の実態を描いてみせる。百聞は一見に如かずだ。教科書で教わるよりもよほど戦争の本質が理解できる。大林監督は本作品を通じて、戦争映画を見よ、そして戦争の悲惨さを知れ、愚かさを知れ、愚かさの来る所以が国民の付和雷同であることを知れというのである。
本作品では兎に角たくさんの名前が登場し、ひとつひとつの名前がとても大事にされる。全体主義の世の中では個人が重んじられず、個人は全体のための犠牲となることを美徳とせよという価値観に席巻されている。つまりは天皇陛下万歳と言って死ねということだ。対して戦後民主主義の範である日本国憲法は個人主義であり、第13条には「すべて国民は個人として尊重される」と書かれてある。
映画は人生を描くものだから、常に個人が主役だ。名前を大事にするのは個人の人生を大事にするということである。そのあたりの大林監督の覚悟が本作品全体を通じて強く訴えかけてくる。その魂のありようは立派であり、見事であり、悲壮である。だからなんでもないシーンでも落涙してしまうのだ。
さて映画の中ではところどころで中原中也の詩が部分的に紹介される。戦争という言葉が中也の詩の中に出てくるのは本作品で紹介された「サーカス」の他にもう一篇「秋日狂乱」という詩である。
僕にはもはや何もないのだ
僕は空手空拳だ
おまけにそれを嘆きもしない
僕はいよいよの無一物だ
それにしても今日は好いお天気で
さつきからたくさんの飛行機が飛んでゐる
───欧羅巴は戦争を起すのか起さないのか
誰がそんなこと分るものか
今日はほんとに好いお天気で
空の青も涙にうるんでゐる
ポプラがヒラヒラヒラヒラしてゐて
子供等は先刻昇天した
(中原中也「在りし日の歌」より「秋日狂乱」の冒頭部分)
本作品はこれからも戦争映画を作り続けてほしいという、映画人に対する大林監督の願いであり、戦争映画を観て戦争の本質を知り、全体主義の陥穽にはまらないでほしいという観客に対する願いでもある。個人を重んじるためには多様性を受け入れる寛容さが必要だ。映画を観て寛容な心になってほしい。しかし現代は世界中にヘイトが蔓延しつつあるように見える。大林監督は不寛容な全体主義が猖獗を極めようとしている現状を危惧していたに違いない。