「60年代の米国ニューヨーク、マンハッタンのウエスト・サイド。 昔か...」ウエスト・サイド・ストーリー りゃんひささんの映画レビュー(感想・評価)
60年代の米国ニューヨーク、マンハッタンのウエスト・サイド。 昔か...
60年代の米国ニューヨーク、マンハッタンのウエスト・サイド。
昔から人々が集う地区はハーレムとなり、いまや行政による再開発の波が押し寄せていた。
ハーレムに暮らす人々は多かれ少なかれ貧しい人々であり、早くから住み着いた白人たちと、新たな移民のプエルトリコ人たちの間で対立が起こっていた。
貧困白人たちは職を追われ、プエルトリコ人たち有色人種が、その職を得ていた。
そんな対立が顕著なのは、若者たちのグループ。
白人系の若者はジェット団、プエルトリコ人の若者はシャーク団と名乗って、残されたわずかばかりの縄張りでの勢力争いが繰り広げられていたのだった・・・
というところからはじまる物語で、その後、ジェット団の若者(ムショ帰りで相談役的立場)と、シャーク団のリーダの妹が恋仲になり、2日間のうちに悲劇が訪れるのは、シェークスピアの『ロミオとジュリエット』を下敷きにしたもの。
で、前回の映画化『ウエスト・サイド物語』は同時代に観たのではないので、音楽・ダンスの素晴らしさはともかく、物語の古臭さに辟易したものでした。
今回も物語の大筋は変わっていないのだけれど、味付けがかなり変わっている。
人種間の対立の根本に、行政による政策を盛り込み、ニューヨークの街を半ば廃墟のように撮っている。
これは、前作のオープニングが、摩天楼の実景(その前にタイトルバックのデザインがあるが)から入っていたのと、大きく異なります。
(この前作の摩天楼は、エンドタイトルで、巧みにオマージュが捧げられており、エンドタイトルデザインはスピルバーグ監督がもうひとりのデザイナーとともに行っている)
つまり、荒廃した街での対立物語であり、一種のディストピア物語ともいえるでしょう。
で、そこでのリアリティを持たせるために、主役は、背の高い白人のアンチャン(見るからに白人という感じ)と、浅黒く目の大きい小娘(どう見てもプエルトリコ系)というふたり。
前作がリチャード・ベイマーとナタリー・ウッドだったので、そこんところは今回の配役が勝ち。
ジェット団vs.シャーク団、トニーとマリアの恋愛模様をスピルバーグ演出の縦横なカメラワークでエモーションを盛り上げていきます。
なので、映画半分ぐらいはすこぶる面白いのだが、後半、息切れ気味。
(というか、トニーとマリアの恋物語は、もともと、どこにも面白いところがなく、今回はその轍を踏んだよう)
ここで変わって比重を重くするのが、前作の生き証人リタ・モレノの役。
プエルトリコ人だが白人と結婚、トニーの育ての親的役割。
彼女が象徴するのが、人種対立のない未来で、役どころだけでなく、後半、彼女が歌うナンバーをそれを象徴しています。
(前作では、マリアが歌ったのだっけ? ちょっと覚えていません)
物語の決着の後、事件の鍵となる銃を拾い上げるのも彼女の役どころ(ここをさりげなく撮っているあたりがスピルバーグが名匠・巨匠たる所以)で、この年寄りが若いマリア(トニーの子どもを宿している)に未来を託していることがわかります。
(スピルバーグが若い人々に未来を託している、とも解釈できます)
音楽はもとより、ジェローム・ロビンスのオリジナルに敬意を表した振付に敬意を表しすぎた故か、コミックリリーフのナンバーはカットしてもよさそうだったけれど、残してしまったので、後半はやや冗長でした。
(ジェット団の警察署でのナンバーと、こちらは微妙だが、マリアのデパートでの夜勤のナンバー)
なお、ヤヌス・カミンスキーの撮影はすこぶる熟練の技で、艶のある画面は当然ながら、ジェット団とシャーク団の対決シーンとその後の警察到着の垂直俯瞰ショットのライトニングなどは、スリラー映画真っ青でした。