「もともと特別なオンリーワン(笑)」だれもが愛しいチャンピオン ガルシアさんの映画レビュー(感想・評価)
もともと特別なオンリーワン(笑)
この映画のタイトルを見た第一印象が「(一番なんて決めなくていい。)みんないっしょで、みんな特別だよ」めいたイメージを勝手に抱いて不快感をつのらせてしまうほどに、私は自身をつまらない人間だと自覚した上で本感想を述べる。
私は養護学校に出入りする関係者だ。この学校では、比較的軽度の知的障害者を受け入れている。
日常的に成人前の知的障害者と接する身として、書き進めていく。
まず、私は我が国の知的障害者への物の見方が嫌いだった。幼少期からそれはすでに始まっていた。私は社会科や道徳の授業における障害者を題材にした映像学習の時間が大嫌いだったのである。
スペインの知的障害者をめぐる社会的背景は全く知らないが、少なくとも我が国の知的障害者は、勉学や体力的素養の優劣を決める熾烈な競争に対して、はじめから脱落していてよい存在として許されている。本来ならば上を目指す必要がないし、養護学校で求められる達成水準は「障害者として雇ってもらえるライン」であるために生産性のかなり低い人材でよい。稼ぎは少ないが、障害者である限りは不足分は国が税金を投じて補助してくれる。
養護学校で学ぶのは厳しい社会に出て活躍できるための素養ではなく「外に出たときに他人に犯罪級の迷惑をかけない最低限の自己制御」だ。スポーツなんてものは、ある程度軽度の障害者でないと楽しめるものではない。それも、抑圧された養護学校内でのストレス軽減のためにやらせてるようなものである。
社会人となった彼らの環境も人それぞれだ。特に貧困は全てを歪ませる。
下手に試合のルールが理解でき、試合時間中は何十分も選手としてふるまえると暴露した日には、障害者として享受できている要介護等級を下げられてしまい、保護者の負担を増やしてしまうかもしれないからといって、スポーツをやってみたくても出来ない層がいるくらいだ。
私は彼らを人として扱いたい。冷酷かもしれないが、健常者に近付いておきながら、それを隠して保護を受ける行為は不正だと思う。彼らを見抜けずに、彼らに不つりあいな補助費が血税から注がれ続ける我が国の現状を憂えている。
我が国内で出回る知的障害者に関する映像作品では、よほど奇をてらった一発屋の監督くらいしか、そんな負の一面など決して描写しない。学習映像ともなると皆無だろう。
一般的には彼らと彼らを守る保護者はいつも腫れ物に触るかのように描写されている。私はこれが嫌だった。彼らは簡単に傷つくし、健常者という悪魔めいた存在から、常に差別を受ける被害者としてしか描かれてないし、知的障害者の性格はすべからく「実は天使のよう」だった。
女性が知的障害者に性的な意味で襲われた場合、基地外行動中の泥酔米兵に性的な意味で襲われるよりも何倍も面倒な事態に発展することを、どれくらいの国民が理解しているだろうか。
私は知っている。本物の知的障害者は、すくなくとも私の周りにいる連中はもっと人間味にあふれており、自分勝手で小賢しく、すぐにサボるしすぐに性的に盛り狂う。魅力的で面白い人間もいるが、基本的には甘やかされて諦めが早く、実はしたたかである。
この現実と学習素材の乖離を指摘しようものなら、おそらく差別的な人間としてみなされるだろう。
それに比べてこの映画はどうだ。自由でリアルな彼らを描写していた。選手が監督のほっぺたをつねるシーンにはほっこりさせられる。実に「ありそう」なシーンだった。
粗暴な監督という、障害者への理解がなく、対策知識を持たない者が、いきなり彼らの中に放り込まれて、しだいに彼らをまとめていくという「おたがいに成長していく」設定が「いかにも感動的」なのがどうしてもデキレース感が出てしまい、24時間テレビめいた感動ポルノを感じてしまうが、とても面白い設定になっていると思う。
清々しい思いがした。やはりスポーツはいいな。
障害者、特に知的障害者の方々をこのように描写できる自由さに感心した。
我が国の知的障害者は基本的には周囲や保護者が迷惑をかけないようにと配慮して外に出されず、家のなかで甘やかされて育つ傾向があるので、結果的に自立心と自律心が未成熟になりがちだけど、やはり西洋はそのへんも自由なのかもしれない。日本では身体障害者でこれをやっても多分ここまで面白く撮れないだろう。