「ベッキー?」チャーリー・セズ マンソンの女たち いぱねまさんの映画レビュー(感想・評価)
ベッキー?
主人公の女の子が余りにもソックリでビックリだったが、今作は、正に日本での公開タイミングが絶妙であり、クエンティン・タラティーノ監督へのドンピシャなセンタリングといった格好である。
この手の類似事件は世界中で起きていて、そのメカニズムの解明はある程度プロファイリングされているとは思う。特に重要なのは今作でも実行犯としての従者である女性陣がフィーチャーされているが、核となるリーダーの男からの影響を、問題を起こす前にどうやって解くことができるかは余り公表されておらず、かなり難しい事案なのか、それとも誰にも知り得るように公表することが、悪意の人間への利益供与になってしまう恐れを鑑みているのか、いずれにせよ、今作品のテーマである“洗脳”という観点で改めて思い返してみる。思えば、今作品、至る所にその“洗脳”を仕掛けるシーンや、台詞、演技が散りばめられている。しかしそれを鑑賞中はハッキリと意識は出来なかったのだ。鑑賞後にネットで調べて初めてストーリー内として必然だと思われていた数々のチャールズの行動にブレインウォッシュの仕掛けが施されている事に驚愕する。アバンタイトル自体がすんなりと理解出来ず、女性を引っ掛ける手口だということを遅くなって分ったので予習というのは大事な事なのだろう。何せ誰がチャーリー・マンソンなのかを勘違いしていたのだから(苦笑
とはいえ、もう少し観客に優しい説明が欲しかったと思うのは自分だけだろうか。それともアメリカではその辺りの全容は国民として当然周知なのかもしれない。チャーリー・マンソンが決して計算とは無関係な天然な男などではなく、用意周到に振る舞う詐欺師だったこと、その生い立ちや成長過程の劣悪さだったこと、人生の大半を刑務所内で生きてきた中で、悪事を反省することなく、周りの人間の悪事すら吸収し研究、実践していたこと、その全てが“悪魔”としての役割を嬉々として享受していたことを作品内に言及できていれば、見間違うことなく鑑賞できただろうと、手前勝手な誤解釈にいたたまれなくなる。
何故、奴はファミリーという集団を形成したのか、何故そのような狂気の集団に無知蒙昧な若い女性達が近づいたのか、そして、その首魁の命令は何故に何故に絶対的だったのだろうか。勿論、ドラッグ投与が女性を傀儡に変えた殆どの主原因なのだが、この類い希なる集団を形成できた外的要因が“ヒッピー文化”という時代そのものであった。カウンターカルチャーがもたらすものは、人々の開放であるが、それはだれもが信用できる関係を築けるという楽観主義がベースであり、その中にそれを利用しようと企む輩が紛れている事実というものを、軽視していた負の側面“刹那”を曝いてしまったのである・・・と、その辺りの時代背景との偶然で最悪な親和性があったというバックボーンを勉強していないと今作品の物語が深く入り込めないということを強く認識させられた。アニメーションだったら、オーバーリアリティな演出で、徐々に蝕まれていく女性達の姿を映し出せるのだが、表面的な狂気をなぞっているような感じで、ファミリーそれぞれの追い詰められた内面を表現仕切れていない印象を持ってしまった。刑務所内での3人の未だ洗脳が解けていないあの状況も、家庭教師の苦悩の表現が甘いせいか、それとも主人公を除く二人の人生が分らないので作品に没入出来にくくなってしまっている。
同じ話の繰り返しになってしまうが、今作品は予習をキチンとしていくことで、作中の演出意図や、登場人物の背景、背負ってきた諸々の事情、何より時代背景との濃密なリンクを幅広く熟知している観客が、その奥深さと緻密な演出に納得させられる作品なのであろう。ラストの“IF”シーンは(あのバイクの男はデニス・ブライアンなのか、認識出来なかったので、ご存じの方ご教示願います。)、幾つもあった地獄から抜け出せる岐路をイメージしたのだろうが、主人公が後ろを振り返ると、チャールズ・マンソンが『出て行け』とのボディアクションを以て、そのかたくなで負けん気の強い性格が、すっかり視野を狭めてしまっているという症状を現わしていて、あれはあれで評価できる構成であると思った、興味深いオチであった。
コメント頂き、有難う御座いました。
マンソンの人物像?
それなりに知識はあっての鑑賞をしたのですが、本作は彼のカリスマ性や洗脳などを中心には描いていないと思うので。
まぁ、タランティーノも含めて予習は大事ですね。
69年は女性として未来を変えていける時代に突入していた訳で、自由奔放にヒッピーとしてカリフォルニアを目指したり、まぁコミューンの中での洗脳で自由も狭まりヒッピー崩壊を招いた訳ですが。
バイクの男はデニス・ウィルソンではありません。
マンソンが不在の時にイチャイチャしていた男です。